萬代亀鏡録

愍諭盲破記:3(日念上人)

この文体を見るべし。
これを非義と云うべからず。
先聖歴代伝来の義なり。
この状中に永劫不失の種とは施主を立てたることなり。
有松氏施主を家内に立てたることを自歎して永劫不失の種と云えるに依って永劫を経歴して種子生長すとも其の間の流転何ぞ悲しまざらんやと誡め玉えり。
施主を立てても濁法となる罪科莫大なれば、永劫を経て流転すべしと云う義なり。
今濁法の人は武士の戦場に臨んで一戦にも及ばずして旗を巻いて忽ちに降参せるが如し。
不受不施の旗を巻いて大敵たる受不等へ降参せり。
臆病不覚の謗罪諍いなし。
されば御名判には、僅かの小嶋の主等がおどさんに恐れて閻魔王の責めをいかがせんと誡め玉えり。
今の濁法の人は公庭を恐れて他門の判形をかれば、外相の謗法と云い内心の臆病不覚と云い、内外共に仏祖遺誡に乖背すれば未来流転は理在絶言なり。
然るに堯了二師の心魔障に依って忽ちに変じ、彼の内外穢濁の人と同行同拝の義を勧め玉えるは、彼の有松氏への返状とは雲泥の乖角なり。
いかが思えるや。
かほど内外の謗罪の者を今他書には濁法仮判の罪を軽々しく云いなし、暫く方便実の仮判なれば、遅くとも二生三生には得道あるべしなんど云えり。
何ほど軽く云うとも重き罪が俄に軽くもなるまじければ、罪軽しと云うは濁派の為には却って贔屓の引き倒しなり。

一、他書にいわく、両聖人の御心底強弱を立て同じ法華経なれども時節に依って修行かわる事あり。
法義繁昌赦免などの上に方便して謗法に交わるは大罪なる故、強の辺を以て随分少しの謗法も制禁す。
今総滅の時分には弱の辺を以て外には国制に随い仮判の謗法を方便として内に実を堅く守れば、内の信心をそだつる方便なる故に謗法に成らず。
これに依って悪道に落つる事有るべからず。
その上に罪障消滅の為施主を立て三宝を供養するをや。
問う、もししからば内外清浄の行者と何の不同これ有るや。
答う、上根清浄の行者と不同これ有り。
譬えば内外清浄の行者蓮華の泥中を抜け出で水上に有って泥を離れたるが如し。
内心清浄にして外の謗法に交わるは、蓮華の泥中に在り抜け出でざるが如し。
泥中に在りながら少しも泥にそめらるることなし。
その如く謗法に交われども謗法に染めらるることなし。
然れば遅速の不同有り。
先に泥水を抜け出でたる蓮華は早く開く。
後に出づるは遅し。
上根内外清浄は早く仏知見を開き、内心清浄は遅かるべし。
この不同あれども二生三生には仏知見を開くべし。
この心を以て存ずる時は内外清浄の行者と外濁内浄の行者と同じく順縁の行者にして遅速の不同を立て給いて、内心清浄の行者は得道遅かるべし。
されども今時分内心信の衆中頼もしく思われ随分仮判罪障を悔い唱題し、施主を以て三宝を供養し玉うべし。
ここを以て日堯日了師の御勧めは総滅の時分に候えば強ばかりにては化他利益成り難く、時に当たって弱の辺を以てす。
本濁法内心に法義を尊敬す、何ぞ法立として濁法の本尊を拝せずや。
内心信と施主を目掛けて何ぞ始経せざらんや。
右の両義を以て勧進するは内心信を増進せしめ、または受不悲田の檀那も自然と化導の意を合点し帰伏せば、内に不受の道理を尊敬し施主を立て罪障消滅し題目を唱えしめ、ついには仏果を得せしむべき大慈悲なり。
日講の心得は濁法の内に不受を尊敬し外に施主を立てて三宝を供養し罪障消滅の唱題するをも、他宗受不悲田と同意に逆縁と云い給うと聞きたり。
頼もしからず。
内に立義を信じ外に施主を立て唱題の功を積んで未来堕在の人となれば詮無き教えなり。
志有る檀那能く能く思案取捨し玉うべし。
日堯日了師の教化と日講師の心得と天地の相違なり。
しかも日講の義も濁法の本尊を施主の本尊と名を付ければ拝す。
日堯日了師の義はそれより一重深く、濁法の内信と施主とを目掛けて遣わす本尊なり。
何ぞ法立として拝するに妨げ有らん。
孔子は九思一言との玉うに日講は一思一言の思案もなく日堯日了の義を謗法と悪口し玉うは顛倒の無分別にあらずや。
已上五箇條を以て得意し玉わば下の條目自然と合点あるべし。
已上他書

報じていわく、この段に蓮華の喩えを挙げて清派濁派得道の遅速を弁じ、次に本尊授与に就いて日講の義と堯了の義と天地の相違と云えり。
今いわく、総じて今の濁法の人は内に法華信仰の辺に依れば順縁と云うべし。
外濁謗法の方に依れば逆縁と云うべし。
順逆共に妨げなし。
本尊授与の義に至っては現に敵となる他宗受不等のことはここに論ずる儀に非ず。
彼は不受を謗ずるが故に本尊を望むこともなし。
今の濁法は公儀の仰せに依りて是非なく他門の判形をたのむといえ共、内心にはこの罪障を悲しみて看経を勤むる者なり。
この人謗罪消滅の為に頂戴せんと懇望するに依って授くる本尊なれば、その内信を目掛けざる人あらんや。
この故に授くる時もこの本尊に向いて随分謗罪消滅の題目を唱え、何とぞ時節を見て法義を改め清派に入るべしと云い、本尊開眼の時もこの人清派に帰入し未来得脱せしめ玉えと仏天へ祈念して遣わすは本尊授与の定まれる格式なり。
他宗の中にも希有に法華信仰の心発して本尊を懇望することあれば、右の如く祈念して授くるなり。
いかに逆縁なればとて汝は謗法堕獄の者なれども、懇望する故に本尊を授く。
これは泥中に投ぐるが如し。
汝地獄へ往かんとも餓鬼へ落ちんとも己が心次第よと思いて授くる人あらんや。
授与の心に至っては堯了も日講も述浣とても何の異轍あらんや。
また他書に、日講の心得にては濁法の人立義を信じ施主を立て唱題の功を積みて未来堕在の人となれば詮無き教えなりと。
云云
この濁法の未来の事を云わば、まず濁法の内信に厚薄の勝劣あり。
内信別して強き人は何とぞこの謗罪を改悔し清派と成って未来を扶からんと思うが故に、家を離るる支度を常に志し清派となる人あり。
また施主を立て法事をば営めども世間づくに成って清派にならんと思う志のなきものなり。
今世間濁派の人を見るに十に九はこの趣なり。
いづくも同じ凡夫なれば濁派の人は皆同じ事なるべし。
これは能化の僧の過にもあらず、五濁悪世の時のしからしむるなり。
濁派と成って悠々緩々として少しずつ看経するとも後世の勤めは二三分世間七八分の人を未来二生三生に得道すべしと許すべしや、如何。
濁法の人流転堕獄の身となるは濁法の自業自得失なり。
日講の弘化の致す所にあらず。
元祖大菩薩を信仰して御檀那となる人に誠に内外清浄順縁の檀那なれども、御妙判には信心弱くして成仏の延びん時、日蓮を恨み給うべからずと誡め玉えり。
人有って道を作る。
その道に迷う者あり。
これ道を作る人の咎には非ず。
天日は明らかに照らし玉えども盲人は躓いて穴に落ち入る、これ日天子の咎にあらず。
何ぞ道理をも考えずして詮無き教えなりと悪口するや。
大愚痴なり。
何ほど順縁なりとたのもしく教化しても濁法の信の勝劣に依って未来得道の遅速はあるべし。
弱き者は必ず邪魔に障えらるる者なり。
この濁法の外相の謗法は心よりなす処なれば心にも濁りあり、清浄と云うべからず。
その故は妻子家財に?繋せられて捨離することあたわず、後世は二三分となり世間は八九分となり、常に聴聞せし法門をば脇へおしのけて、妻子家財に後世と思いかえたり。
かように妻子等にひかされて堕落すれば是非に及ばず、未来は流転すべしと口にも云い、心にも思うなり。
この心を清浄なりと云うべしや。
今濁法の人の風儀を見るに、婚礼等には存じの外に衣類も花麗にし、家宅の普請も過分にすれども、父母先祖の法事を営むには、あとさきを考えて少分にするなり。
これは世間を重んじ後世を軽んずる故なり。
これに依って思うに善悪共に弱きは強き方へ引かるるものなり。
先蹤あり、元亨釈書十九に出でたり。
鞍馬寺の安珍熊野へ参詣す。
旅館の寡婦安珍を恋慕して二丈余の蛇と成りて跡を追うて来たる。
故に安珍は道成寺へ逃げ入りて僧を頼みて鐘の下に隠る。
彼の蛇追い来たって鐘を巻き、尾を以てたたきて安珍を灰となせり。
蛇も死して、蛇の執心強き故に安珍と夫婦となる。
道成寺の宿老の夢に二蛇来たって告げていわく、一は安珍、一は女なり。
ついに婬婦にせめおとされて夫婦となれり。
悪趣の苦痛甚だし、大慈悲を以て寿量品を書きて弔いてたび玉えと歎くと見る。
夢さめて彼の望みの如く寿量品を書きて法事を営めり。
また或夜の夢に二人来たって歓喜のえみを含みて告げていわく、御回向に依って悪趣を脱れ、安珍は兜率天に生じ、女は?利天に生じたりとて報謝の礼を宣べたりと云えり。
これは婬婦の恋慕の念力強きが故に安珍が持戒の善心を女の悪の方へ引き落としたり。
また法華伝八に善強きが故に悪を善の方へ引き取りたる事出でたり。
常に云い触らせる烏龍遺龍の事なり。
子遺龍父の遺言を堅く守りて仏教を信ぜず、経を手に取らざりしかども、国王の法事に法華八巻の題号ばかりを書かしめ玉う。
これをも辞して書かずんば、たとえ法事の庭なりとも誅戮に行わんとの勅の恐ろしさに、落涙しながら八巻の題号を書せり。
され共この題号書写の功徳に依って父の烏龍の地獄の苦を救いて兜率天に生じたりと云えり。
これは国王の善心強盛なる故に遺龍が悪邪を伏して善の方へ引き取りて悪を善と変ぜり。
善悪ともに弱きは強き方へ引き落とさるるものなり。
この因縁今の濁法の衆に相当せり。
内には信心ある故に不受の法を替えて他門の旗下につくは悲しけれども、公儀の権威強き故さすがに謫戮の難にあうことはならず、落涙して不受の旗を巻き他門の敵に降参せり。
これは公儀威勢の悪は強大なり、内信の心の善は弱小なれば悪の方へ引き落とされんは必定なり。
何ほどたのもしく仮判を暫くの方便などと軽々しく云いても罪体は減りもせぬ者なり。
かくの如く外も濁り内も弱く汚れたる人と同行するは、眼前に清濁雑乱の咎を犯せるに非ずや。
また施主を目掛けて同行すと会すれ共、その施主と本人とは体別なり。
施主は内外清浄にして濁派の法事を営む時直ちに受くれば謗罪となる故に、施主の手に渡り一転して受くる取次をする人なり。
故に奥師施主を船に喩え玉えり。
古来他宗の内に希に宿善ありて法華を信ずる善心発したる時、その善心を仏辺の縁とせんと欲する方便にて自他共に罪にならぬように施主を立て施物を受納し、彼が志をも遂げしむるなり。
奥師の在世に板倉伊賀守殿宿願に依って千部の法華経執行の時、彼の家中の侍成田孫右衛門を施主として勤め玉いしが如し。