萬代亀鏡録

説黙日課:6(日講上人)貞亨五〜元禄元

巻二

貞亨五戊辰  六十三歳
正月朔日日待、御祈祷経を拝読す。学初め書き初め例の如し。かつ今日試毫を霊前に献ず。当春より報恩抄の啓蒙を創む。十六日終日客に接す。島津内膳及び又十郎また年始の為礼に来たる。明後日恵林院の七回忌に依って饗応を設く。
二月十八日黒貫快心法印を私宅に招請す。兼日内談を家老等に遂げ別状無き故なり。映前快心入座、唔語時を移す。饗膳の事おわって鷲峯庵に入り、進んで霊像を拝し、鶴樹軒に登って久しく物景を見る。帰座の後やや久しく閑話す。相伴は三角氏、和田氏、吉賀氏、道意等なり。暮れに及んで帰駕。野僧喜気窮り無し。累年彼の寺に遊び節節芳情に預かる。たまたま私宅に招請せしは篤志の万が一に酬ゆるなり。云云 明日黒貫より使僧有り、詩三首を送ってこれを謝せらる。二十日黒貫の和韻三首を綴り、籠枕十箇を持参せらるに就き更に狂詩を添う。云云
三月朔日栄俊日妙の十七回忌を迎えて饗応を二十余輩に設く。十二日日相及び心鏡等より年始状来たり、かつ心鏡より金子三十両を送る。その志趣読誦法華万部成就の石塔を建つるの雑用を助成するに有り。また習師と領師との本尊の表具を寄進す。日相書中手足不仁未だ止まらざるの趣きを告ぐ。頃日湯風呂新たにこれを営む。湯に入る毎に身心の通帳をを覚ゆ。養生の要術たるべし。云云
四月三日高岳院殿二十五回忌を迎え朝齋を多人に設く。昨夜自昌院殿に親接閑話し快く法義の趣き領解する故されに数箇条の法語を授けんと欲するの旨を夢む。云云 六日今日双巻経の講成就し終わって更に観音両巻疏の講を創む。
五月四日聞く、大廻船遠州灘に於いて自火船を焼き船頭十六人同時に死し、かつ船に積む所の物三十貫目程の費有るべし。云云 後日十六人の法名を金丸宗是に尋聞、牌をしたため過去帳に入れて怠りなく回向す。また聞く、去秋佐州日庭見廻りの飛脚三人(町田源七孫六日庭の僕)佐州番所の糺明に逢いて江府に達するの上、関所を破るの科に依って三人帰府の後籠舎。
源七は旧臘二日科籠中病死。二人は鹿児島に謫せらる。飛脚を遣わし本人(日庭弟子二人)を誥籠に入る。云云 また頃日覚照院日驤導の頌をしたためてこれを遣わす。比来三卜より助気丸の方を伝え、門弥をしてこれを調合せしむるにもっとも虫を押すに利あり。
六月十日朝齋を三十余輩に設け、かつ式少の年来詰越の儀を聞くに依って吉賀氏を内膳等に遣わしその時宜を調う。また頃日録内の第九に至る迄の啓蒙を成就し、十五日より第十国家論の分科を創む。十九日浅山氏より状来たる。内々巻物献上の儀或る方に密談せし処、今程時節宜しからざる故に無用たるべきの旨指図あり。故に是非に及ばずまず延引す。云云 これを見ていよいよ恨む。先年大久保賀州幸いに尋訪の時その巻物を押さえて披露せられざるを。明日家老中より使い有って式少口上の趣きを伝えらるるに浅山氏紙面の趣きに異ならず。彼の巻物返弁せらる。云云 また聞く、六十六部木食浄運(東叡山僧)諸国を廻って大名の馳走となるの趣き江府に達するに依り越前より召還され逼塞。云云 二十九日慈円の懇望に依って今日八幡山鎮守八幡の影像を開眼するの書付をしたためこれを遣わす。
七月六日富田六兵より状来たり、まさに知る、覚眼日達五月二日逝去せるを。早速牌をしたためて回向す。ああ余命幾程も無きを識らずして年来の素懐を忘却せり。九日浣師の十三回忌に依って門弥饗応を三十余輩に設く。紙塔婆及び頌をしたためて門弥に与う。十日書櫃分配吟味の後平六をして章疏目録を改書せしめ、イロハの次第を以てその部類を分かつ。十五日解夏例の如し。頃日聞く、日指方日庭に阿党していよいよ両派と成る。また聞く、大樹水戸宰相内の侍犬を殺せしを罰し急に切腹せしむ。宰相大いに瞋って屋敷中の犬を集めてこれを殺しこれを埋めて犬塚と号す。また酒井河内人畜軽重の儀を以て頻りに老中を諫む。故に犬に就いての法度日を追うて緩む。故に人皆河州を称美す。云云
八月三日谷口一才病急なるに依りて吉左に託して野僧の本尊を懇望す。即ちしたためてこれを遣わす。かつ暮れに及んで門弥を遣わして予が心緒を通じ兼ねて安心を示す。云云 また近頃毎日雷電処々に堕つ。云云 九日早天一才より五右衛門を遣わして懇ろに本尊授与及び節節見廻り等の儀を謝す。?後忽ち訃音を聞き牌をしたためて丁寧に回向す。後聞く、末期敢えて病苦無く正念にして終わると。予左遷以来莫逆の友たり。能くその心の質直なるを知り、かつ唱題を勧むるに彼能くこれを諾す。結縁浅からず来報頼み有り。云云 十一日松厳院殿の十三回忌を迎えて饗応を五十余人に設く。十五日今霄晴天席を書院の庭にかいつくらいて月を賞し興を催す。日高氏八代氏来臨、閑話深更に至って休す。十六日今月の対面日を隔日に定む。内心啓蒙の著述を務る有りと雖も、外儀衰老余命測り難き趣きに託して両奉行等に告ぐるに皆能く許諾す。云云 十八日朝来雨天、暮れに至って大風激雷、ようやく庵及び文庫の看経を勤めおわってまさに書院に還る。風次第に強く夜半過ぎに至って庵と書院とに破損あり。文庫また棟覆い茅を吹き散らす。故に雨漏れ書函を浸すに至る。幸いに水函中に入らず書籍損失の儀を免る。明日庵に登るに洪水目を驚かす。かつ老翁来たり告ぐ、かくの如き大風は一代に両度。云云 また聞く、領分反覆の家数人馬田畠の損亡等を点検し、飛脚を江府に遣わす。云云 また対面の日を減ぜしに就いて偶然にして詠歌興を催す。
こもらましのこりの山はあさくとも心のおくをかくれがにして自ら一笑を催す。
九月朔日備中の善了より状来たり讃州の日了八月五日逝去すと告ぐ。即ち牌をしたためて回向す。善了また所存を述べていわく、あつかいの方便として中分と成り暫く両方に属せず。云云 後日如何。また頃日十五檀法の異説書付を以て快心に問うに、好便に付して智積の隠居の泊如僧正及び醍醐報恩院僧正に問わる。他日両処より酬答有り。その義区別別処に記するが如し。予彼の家故実を習い失うと推察す。七日三角氏より水戸黄門の後楽苑宴会異体の詩を送らる。かつ聞く、一閑読破すること能わず。野僧電覧するに本挙等敢えて滞り無くかつ落句誤字等を吟味し、他日三角氏等の披覧に備う。云云 またこの頃平六をして読経の総数を算勘せしむる処万部の成就すること来年の四月に有り。云云 十七日金柏寺来たり告ぐ、式少より野僧をして天昌寺住持職を勤めしむるの命有り。進退決し難し。云云 予領掌然るべきの趣きを告ぐ、他日また来たり告ぐ。止むことを得ず既に領諾の酬答を公儀に達し、かつ寺役世辺の儀に拘らざるの首尾を調う。云云 頃日快心より十五檀法の中之河臨略記(秘書)及び句義集を見せらる。平六をしてこれを写さしめおわって返弁す。また村田氏より風浪集及び名勝詩集を見せらる。
十月六日天昌寺来臨、(昨日入院)祝儀物持参。予また門弥を遣わしてこれを祝し、かつ中扇等を送る。十三日朝齋二十余輩。今日世雄より状来たって既に万部石塔を誂うるの旨を告ぐ。また武村氏より書櫃到来、珍書これ多し。なかんづく文徳実録三代実録を連連歴覧し朱を加う。云云 晩来御経塚の?示を定め、縄を張り竹を立てて印と為す。
十一月七日児玉石虎当四日逝去すと聞く。兼ねて死期を知り、浴しおわって衣服を換え、仏壇に向かって眠るが如く終焉。云云 予思惟するに他宗たりと雖も或いは宿悪軽微の類かくの如きの類有るべし。云云 牌をしたためて丁寧に回向す。また比来守倫著述する所の観音義疏円通記を見るにもっとも談柄を扶く。文義通暢、まさに台宗また人無きに非ざることを知りぬ。また頃日啓蒙述作に就いて礼記大全及び通鑑綱目を電覧し往往朱を加う。十二日聞く、十月朔日元禄と改元すと。
十三日朝齋を二十余輩に饗す。暮れに及んで激雷鴻雨す。その不時を怪しむ。また頃日随犯随懺の心を帯したまたま腰折を綴る。
朝ごとの草葉における露霜の日影にもるる事はあらじな毎朝日を拝するの砌怠りなくこれを吟ず。云云 二十三日朝三十余輩を饗す。明日天昌寺鹿児島より帰って出茶の諸具を持参す。向後時時これを用う。茶を服するに風味もっとも好し。二十七日両巻の疏講釈の後饗応を天昌、盛岩、城宝等に設く。また頃日養真一休自筆の掛け物を持ち来たりこれを見せしむ。歌三首あり。感に堪えたり。故にこれを写さしむ。
十二月十二日観心本尊鈔の啓蒙を創む。この書大節なるが故に四大部及び九十已成の後まさにこれを企つ。また頃日備前より来年門弥の代わりとして高雲渡海決定の便り有り。歳暮平六をして本尊帳及び勧唱首題総数等を清書せしむ。行中の規矩例の如し。