萬代亀鏡録

説黙日課:7(日講上人)元禄二〜元禄三

元禄二 乙巳  六十四歳

正月朔日日待子丑の終わり寅の一点御祈祷経を拝読し、学初め書き初め共に成り、かつ試毫を宝前に献ず。かつ思惟すらく、余命たとい古稀の年に至ると雖もまさに一瞬の如くなるべし。当年よりいよいよ鞭策を加えて心地を錬磨すべし。常無常の観現前するが故に触向対面有るも無きが如し。四日町田清助勝手に来たって再び出入奉行と成るの趣きを告ぐ。云云 また旧冬より透き間有る板を湯風呂の中段に敷いて風呂の為にこれを用ゆ。後危事を恐慮してこれを用いず。十四日善了より状来たる。大体日了の遺言に依って法義いよいよ雑乱し、及び備州讃州の両俗やがて渡海して春雄日堯の本尊を取り還す支度なり等。云云 予聞いて彼等の邪義に依っていよいよ日堯等をして謗人とならしむるの義を悲歎し、また善了の心地未だ治定せざるに依りて首尾合わざるの旨を知る。云云 十六日渋谷宇右より江府去春以来の中間廻状を送る。知足院の夥しき普請早速出来して既に御成牧野氏いよいよ出頭節節御成り等の事有り。また今日谷山宗順来臨自詠の歌を呈す。いわく、楽しむも命なりけり今日もまた妙なる法の華にまみえて予これを吟賞しとりあえずとことはに色香妙なる法の華をことぶきそへて千代も詠めんまた狂歌祝言一首、法の華さそふる春ともろともに運もさとりも開きやはせん。
一笑。また頃日より多無保を用ゆ。未だ本字を知らず。湯を焼き物に入れて足を暖むるの具なり。自ら頭寒足熱の養生の道にかなう。(三清よりこれを送る) 二十七日夜に入って請観音経の疏を閲せし処誤って火鉢の上に落とす。火書籍に着く、口を以てこれを吹くにいよいよ燃え上がる。余の書籍を以てこれを押さうるに火忽ち消ゆ。もっとも以後を誡むべき事なり。幸いに火文字を焼かず。明日松山氏に遣わして修補せしむるに還って初に復す。かつ観音の代悲大受苦及び以風火要還応善機等の託事観を凝らし、また比来自誡の頌若干句を綴る。
閏正月二日両奉行を呼んで憑み門弥年期すでに明くる事及び奉行に代わる才覚の事等を告げ、他日その趣を家老に達するに敢えて別条無きの酬答有り。十六日夜に入って三角氏と樺山左京と同道にて来たる。閑談夜半に至って帰る。また近年盆正月の外尋常諸方に遣わす音物度に過ぎ、かつ心行を妨ぐるに依って当春より大半これを減ず。云云
二月朔日朝齋四十余輩。明後三日両奉行来たって平六をして大阪蔵本に遣わす状これをしたためしむ。即ち門弥の代わりの事なり。早速期す故に状二通をしたためて一通は細島の便に付してこれを遣わす。云云 十六日吉賀氏を以て近日大阪より万部成就の石塔を取り寄せんと欲するの趣きを家老に告ぐ。(宇宿伝左、渋谷宇右) 明昼別条無きの酬答有り。その晩に至って半助勝手に来たってつぶさに石塔誂え様次第等を聞き、逐一これを記して帰る。云云 十八日家老より両奉行を以て時節悪しき故に石塔の儀延引然るべきの趣きを告ぐ。昨日の酬答と掌を返すが如し。故に聞いて驚動すと雖も色に出さずしばらく両奉行を待たしめ平六をして愁訴両状及び石塔の儀先年式少許容の儀浅山氏委曲に存知、米良庄左その節往復の使いとなる等の趣きをしたためしめ両奉行に付して家老に達す。(後様子を聞き合わす今の家老式少の仕置きを用いざる義なり)云云(浅山氏また在府故是非に及ばず) この節しきりに万部読誦の功法界に満じ納種識在り永劫失せず何ぞ必ずしも事相の石塔の立否に拘らんや等の観念これを凝らす。また心に期す、この後なお内外に就いて巨難あるべし、敢えて動転の儀有るべからず。また遣著を詠ずるの狂歌にいわく、かかる時さぞや小腹の立ちぬらん兼ねて夢現の観なかりせば。
二十七日乳母妙乗の五十回忌を迎えて饗応を設く。二十九日家老より両奉行を以てこの節石経を土中に埋め経塚を築く等の事またまず停止有るべきの旨を告ぐ。同日和田氏来たって家老の内証を告ぐる有り。云云 また頃日野僧宗是に託して大阪通用を成せる儀に就いて会所より宗是を糺す趣き有りと雖も、宗是つぶさに前代以来二十余年敢えてその穿鑿無き趣きを答う。予また伝聞し平六を半助に遣わして委しく松厳院殿以来大阪問屋免許の趣きを告ぐ。即ち半助家老に達す故にこの後敢えて沙汰無し。また頃日観心本尊鈔啓蒙五冊成就す。存外早速功成り欣幸窮り無し。
三月朔日第十一巻法華題目鈔の啓蒙を創む。四日紹真の七回忌に依って饗応を設け、かつ門弥の餞別として銀二枚を遣わす。彼辞退すと雖も強いて領納せしむ。この砌三角氏等より餞別を門弥に送る。十六日夜に入り三角作太来たり閑話す。昨夜数句を夢みる中分明に習練功成師範恩の一句を記し得たり。十八日松元氏より逢沢清九郎讃州長兵衛の渡海を告ぐ。まず門弥を遣わしてほぼ様体を聞き平六覚體凾フ状を披見するに依って彼等の邪義及び二幅の本尊を取り返さんが為に渡海の趣きもっとも著明なり。予初め本尊返弁の時不拝の言を加うべきか、授与書を削るべきかの両端を思惟すと雖も後思い返すらく、彼等既に謗徒と究まる上はこの二幅の本尊また反故に同じ。故に裏書等に及ばず、そのまま返弁の覚悟なり。然りと雖も無味にこれを返す時は後難有るべし。故に日堯状の能破を著述して後これを返弁すべしと思い定め、隙入れの儀有るに託して彼の両人を町宿に滞留せしむ。その間時時彼等荒言を放つを聞く。云云 勿論始終対面せざる所存なり。二十四日堯状能破書及び追加惑弁書札酬答案文また出来せり。故に夜に入って平六等を町宿に遣わし二幅の本尊を両俗に返弁せしめ、つぶさにその趣きを述ぶ。云云 明日帰駕。また頃日門番有馬助兵衛松樹の梢より落ちて腰を痛めたれば番を止めて宿に退くに、その代わりとして成合四郎左衛門番役を勤む。
四月三日本住院妙信の十三回忌に依って門弥朝齋を設く。紙塔婆をしたため頌を作ってこれを与う。十二日式少及び浅山氏より状来たる。かつ肥後より人魚を江府に献ずと聞く。また伝え聞く、人魚の背に文有り、肥後万屋休心、六字もっとも分明なり。あたかも照月の故事に似たり。十三日第十二巻顕謗法抄の啓蒙を創む。また明日家老より両使を以て伊集院忠兵赦免の愁訴調わざる旨を告ぐ。十八日大工を呼んで万部成就の塔婆を刻彫せしむ。二十三日比来加行に依って石経今日成就し、自然に曾授彼日本の五字石の続き有るを見感心少なからず。二十四日天気晴朗。今日万部成就の祝儀の験と為し、参詣人を呼び集む。塔婆を拝しかつ赤飯を饗す。来集の人五十余人。かつ祝い物を島津内膳等の三十余処に送る。二十五日門弥の発足近きに在り、故に今日饗応を野僧に設く。相伴十余輩。明日予また饗応を門弥に設く。相伴人衆また十余輩。昨今ともに来者をして一字三礼の御経を拝せしむ。頃日透透万部成就の札をしたたむ。
五月二日覚眼院一周忌に依って朝齋を設く。門弥の発足近きに在り、故に頃日兼ねて本尊及び諸方の返酬をしたたむ。かつ作州赤松玄沖律詩和韻の二首を送り、また覚照院作意の詩を修補し、かつ和韻を送る。また堯状能破の書数通をしたためしめて日相覚照等に遣わす。また武村氏と啓蒙板行の内談及び板行の雑用入り目の事。その外諸方の所用、兼日門弥をして能く納得せしむ。また昨朔和田治郎兵来たり家老の内証を告ぐる有り。云云 六日天気晴朗に依り門弥今日発足。かつ平六をして上方所用の條目をしたためしめて門弥に与う。また五種妙行の本尊を授与し、及び遺物書籍等の書立を遣わす。
また門弥本従の師は日浣にしてその節目を守る事道理にかなうが故に師弟の契約を成さざるの趣きを告ぐ。云云 映半発足、両三年中見廻りの為渡海すべき趣きを兼約して去る。門衆三郎下僕孫七乗船する所に送る。夜半方に帰る。云云 明日使いを以て門弥発足前の懇情の衆に謝し、また門弥出船延引に依って節使いを遣わして追って失念の所用を弁ず。十八日に至って出船。十九日江府より飛脚有って式少先月の末御暇拝領の趣きを告ぐ。家中安堵、かつ宇宿伝左参府の節大井川河末の渡し船に乗り浪荒く荷物皆潮に浸り存命これ幸い等と聞く。云云 近頃万部成就の儀及び門弥発足に依りやや久しく啓蒙を廃す。当十三日より第十三巻一代大意抄の啓蒙を創む。二十日去る頃清水右琢去秋逝去の訃音を聞き、今日命日たるに依りて饗応を設く。晦日午刻高雲渡海入宅す。即ち御経を頂戴して仮判等の謗罪を改悔せしむ。かつ備作及び京大阪の様体を聞く。明日荷物到来、状を披きまず善了の法義堅固、これに随って日指方改悔するものまたこれ多き趣き承知して欣然たり。また心鏡より立像の釈尊一躯を寄進す。また開眼の為法華三部到来。その中開結の二経野僧字誤等吟味の上平六をして新写せしめたきの趣きなり。即ち釈尊の像を仏壇に安置して読経開眼平六をして透透開結二経を書写せしむ。云云
六月朔日吉賀氏を以て吉田源助(高雲改名)の渡海入宅の趣きを家老に披露しこれを謝す。三日富田六兵衛江府より帰後初めて来謁しつぶさに江府の体たらくを聞く。覚意(覚眼弟子)より長江の返書を平六に達す。旧冬伴頭職に任ずる等の事有り。また仙台日玄遷化及び観甫日利逝去等の事を聞いて感慨少なからず。四日宗旨改めの為源助を奉行衆に遣わす。言に宗旨を宣べざるに依って再び改悔せしむるに及ばず。九日式少帰着。吉賀氏を遣わして祝詞を調う。十日朝齋を四十余輩に設く。今日山口平太夫清助(清助病患に依る故なり)の代わりと成る。他日初めて平太夫に謁す。十二日式少より使い有って土産として曝一疋を送らる。十五日に至って吉賀氏を城に遣わしてこれを謝す。
十七日式少来儀唔語時を移して去る。即ち平太夫を遣わしてこれを謝す。また頃日伊集院新右衛門の母吉賀氏に託して懇望す。故に本尊及び経帷子の書付をしたためてこれを遣わす。十八日吉賀半助参府。今日乗船の故に平六を遣わして餞別の儀を調う。また昨夕浅山氏来たり閑話、かつ水戸相公亭の詩を見せしむるを約す。今日使いを以てこれを謝す。二十日十四巻啓蒙を創む。二十六日吉賀氏の代わりとして藤井三左衛門兵三と同道して来たり謁す。二十八日平六書写の開結二経成就す。故に即ち十巻の外題をしたため宗是に託して大阪に達せしむ。また明日妙祐の十三回忌に依って平六饗応を設く。
七月朔日了閑京都よりの状来たる。板行の相談早速究め難し。及び鳥羽の真正院の法義別条無く世辺また日相と和融の趣き並びに日相堯状の破を見てはなはだ称歎してこの書を世間に流布せんことを勧むる等の旨を告ぐ。また山屋次右衛門休蓮の訃音、及び辞世の歌を聞いて感慨少なからず、牌をしたためて回向す。六日平六をして書籍目録を改補し及び都合の巻数を記せしむ。九日総勘文鈔の啓蒙を創む。十五日盆供例の如し。暁来雨車軸の如く、明晩更に大風を加う。私宅また破損多し。十七日に至ってまさに洪水を見る。二十七日空泉上京の便、武村氏に遣わす状等をしたたむ。これに付き啓蒙板行の相談遠慮有るに依ってまず沙汰無し。晦日町田瑞現の死去を聞き新助を遣わしてこれを弔い、牌をしたため丁寧に回向す。また頃日儒書中の死生猶既に及ばず況や利害に於いてをやの文を見てもっとも省みる処有り。また依善起悪の句を翻案して依悪起善の工夫を発得す。云云 また当月十日島津半兵衛逝去。その節藤井氏を右京に遣わし、かつ戒名を聞いて回向す。
八月五日式少天神の辺に於いて隠居屋敷を構え普請興行有りと聞く。また聞く、右京家老と不和毎事埒明かず。云云 七日金柏寺綱宗遍参の為黄檗山に昇るに就いて暇乞いの為来たり対談す。かつ万部の塔婆を見せしむ。他日使いを以て餞別を送る。十一日朝齋を四十余輩に設く。去る夜二十八品者是所顕而非所破の十二字を夢む。十五日霄拝月の後書院の縁に出で月見す。初め陰ると雖も時を逐うて清朗、中心もっとも潔し。彼岸の結日なるに依って今夜客に接せず。二十三日第十五法蓮鈔啓蒙を創む。かつ平六をして啓蒙の目録をしたためしむ。故事等の重出無からしめんが為なり。頃日備前より使い有り。破堯書に依って日指方改悔の徒これ多し。善了法義いよいよ吉し。云云 二十四日正法院妙秋三十三回忌に依って饗応を設く。かつ山口兵太夫本尊を懇望するに依って親子各々に授与書をしたたむ。今日来たり頂戴して丁寧にこれを謝す。二十六日樺山主馬の内室産後死去を聞き新助を左京主馬渋谷氏に遣わして弔問す。二十九日三角作太白氏文集を借用せられ予文集を点検する時、たちまちに妙法尼抄李如暹将軍の蓬子将軍の故事これを見得て大幸言語に絶せり。また頃日森伊左の病重きに依って野僧の本尊を懇望す。故にしたためてこれを遣わす。
九月朔日森伊左の逝去を聞き新助を遣わしてこれを弔い、牌をしたため回向す。また頃日平六をして法苑珠林感応録を抜萃せしむ。八日第十六兄弟鈔の啓蒙を創む。十七日両巻の疏を講じおわって観音玄の講を創む。天昌等の三寺祝儀の饗応を設く。二十日清水右琢の一周忌を迎えて朝齋を二十余輩に設く。
十月朔日比来野僧咳喘やや指し発り安寝し難きに依ってかつて友仙の薬を服すと雖もその験無し。故に今日三伯をして脈を診せしめ薬を服す。今夜より喘止み安臥す。これ幸いなり。六日普門品余残の文句及び記科註等を講じおわる。今夕野僧祝儀の饗応を天昌等の三寺に設く。相伴十余輩。十三日会式朝齋例の如し。二十五日兵太を式少に遣わして普請成弁の祝詞を宣ぶ。かつ人皆今般の普請興行宜しからざるの旨を批判するを聞く。また比来朱を白氏文集等に加う。頃日江府腰越屋加平次の書状到来し、向後存知の方往復の書状を取り次ぐべきの趣きを告ぐ。
十一月五日備作より状来たり、日指方悪心いよいよ強盛なりと聞き、彼の一派改むべからざるの起請文を書かしむ。云云 九日第十七巻の啓蒙を創む。また昨日暴雨疾雷今朝に至る。十一日三角氏病急にして一門皆集まると聞き驚いて新助を遣わして訪問す。明日また平六を遣わす。皆終焉の期を待つ。云云 十三日像師講朝齋二十余輩。午後作太訃音を聞き新助を遣わしてこれを弔し、戒名を牌にしたため一部の真読を創む。子息善左在府残念の程を察す。他日まさに聞く、作太山口藤兵衛に遺言し、懇ろに野僧年来の懇意並びに病中節節訪問等を謝すと。云云 二十三日朝齋を三十余人に設け、かつ聞く、明後日式少普請成就に依って移徒の儀有り、城中の男女ことごとく彼処に赴く。云云 今日津曲七右の訃音を聞いて弔問し丁寧に回向す。晦日並べて御書第十八九巻の啓蒙を創む。
十二月九日長江よりの状平六に達す。いわく、当六月洛北鷹峯談林文句講釈の能化を請待するに依って止むことを得ずして入院。云云 即ち取要院と号す。当初の日号の改否未だ知らず。云云 二十八日式少より使い有って例年の呉服代を送らる。歳暮及び行中の軌則例の如し。

元禄三 庚午  六十五歳

正月朔日日待拝読御祈祷経。学初め書き初め等例の如し。二日試毫を霊前に献ず。昨夜章疏を著述するを夢む。今夜源氏関屋巻の五字を夢む。五日第二十巻の啓蒙を創む。十二日三伯来たって勝手の三人に語るの趣きを聞く。いわく、旧冬江戸より便り有って風聞す。或大名の預けと成る侍訴状を公方に献上せしに大樹瞋を催すの次でおよそ預け人有るの諸大名に普く預かる所の遷客に馳走することなかれと命ずと。云云 予これを聞いて彼是思い当たること有り。式少帰国の時必ず野僧を招請すること有り。今度その沙汰無き事或いはこれに依るか。また三伯来たり告ぐ、式少或家老の内意有るべきを恐るか。向後諸事に就いてその瞋有るべし。云云 十三日第二十一巻の啓蒙を創む。十六日山口兵太を城に遣わし年始の祝儀を調え、かつ歳暮歳初式少よりの使信を謝す。また昨夜今日諸方の礼を調え、かつ返礼を遣わす。今朝終日客に接すること例の如し。今日島津内膳及び又十郎また来臨。云云 十七日午後観音玄義を講ず。頃日町田清助万部石塔愁訴の儀を勧むるに依って相談を両奉行に遂ぐと雖も、浅山氏別して勘略方の奉行なる故にかくの如きの事を聞かれず。渋谷氏また病気。今程内談を遂げ難し。云云 予未だ時至らざるを察し重便に書札を世雄に遣わし石塔を慈円の河内屋敷に預けんと欲す。
二月朔日朝齋例の如し。但し両奉行来たらず。明日両奉行来たって渋谷氏の内意を伝えていわく、近頃江府より便り有り。諸国預け人等厳密のお仕置き有り等これを伝う。然るに石塔の儀この節沙汰無くして然るべし等。云云 そのついでに両奉行自分内証の趣きを宣べていわく、向後齋会等五三人を以て限りと為し、大勢を集むべからずかつ諸方の音物もっとも減少すべし等。云云 まさに知んぬ、昨朝両奉行来たらざる事またこの儀に依ることを。野僧内々いよいよ両條を省かんと欲するの処この指図の事有り。これ善知識なり。年来両事を修するにおよそ三意有り。一には事慳の習気を離れんが為、二には檀度の一分に備えんが為、三には仏法の助行に擬せんが為なり。然りと雖も因縁有りてこれを止む。故に止は修に勝る。向後両奉行の外齋会たりと雖も乗馬の衆を招請するを制止し、中小姓以下及び医者五三輩を以て準と為し、或いは足軽衆に限って饗応を成し、音物の儀は用捨時に随い人に随って一概に定め難しと覚悟するなり。但し一向に由緒無き音物を停止すべし。云云 四日第二十二巻初心成仏抄の啓蒙を創む。十五日二十三巻の啓蒙を創む。二十五日富田六兵衛より江府の加平次に遣わす状を返弁していわく、或る方(予は渋谷氏なるべしと推す)より内意有る為の故に向後江戸往復の状を取り次ぐ能わず。云云 予聞いて異念をさしはさむこと無し。二十七日渋谷宇右衛門暇乞いの為来たり閑話す。便に因って式少参府発足前私宅に来たらず、先例を追わず道理に順ぜず等の素懐を述ぶ。総じて式少の野僧に失するを考うるに、一には先年大久保賀州幸いに問訊の時野僧持つ所の長篇の巻物を公庭に達せられざるの失。二には万部の石塔先年許容の堅約違変首尾合わざるの失。三には今年既に家督本に復する節なる故に、もし江戸隠居相調うに於いて今般一期永別の端緒必然の理なり。然るに捨てて顧みず、暇乞いの為に来たらず。すこぶる人心に非ざるの失。云云 この三失有りと雖も初二は沙汰せず、ただ第三の條目に就いてこれを糺明するにその理極定するが故に渋谷氏また領掌するに似たり。かつこの趣き必ず式少に達せらるべき旨を告ぐ。既にして渋谷氏辞去す。その後式少暇乞いの使い有りと雖も此方より使いを以てこれを謝せず。後聞く、明日午後式少発駕すと。
三月朔日上山三左等来たって立入の衆停止沙汰の実否を番衆に問う。明日藤井三左来たって今般公儀より立入衆等の法度の沙汰無きは不思議の事なりと称す。云云 予その趣きを推するに初め立入法度の相談有り、後たちまちその相談を止めらるる者か。この後伝聞す、昔よりこのかた帳面の立入衆の外新入は堅くこれを制す。たとい聞講懇望の徒有りと雖も敢えて一人も入るべからざるの趣き公評決定す。云云 これに依って向後真俗新たに立入を望む衆有りと雖もついに事成ること無し。云云 また頃日京都より書籍到来。なかんづく黄檗板行の経論数少なれどももっとも御書の本拠を考うるに便有り。この後毎便黄檗の板本しばしば来たる。瑯耶代酔透透歴覧朱を加う。五日第二十四秀句十勝抄の啓蒙を創む。また頃日たまたま盛衰記の後白河法皇行法自慢天狗得便の事等を見てもっとも省みること有り。云云 二十一日第二十五巻太田抄の啓蒙を創む。また比来唯識三部の鈔見るに随って朱を加う。二十三日平六熱気痛骨床に付くに依ってしばらく講釈及び啓蒙の校合を止め、三伯の薬を服用するに月末まさに快気を得。晦日仙寿院より手翰を以て野僧招請の儀を勝手に告ぐ。勝手より近年門外を出でざる旨を酬答す。かつ一礼を宣べしむ。云云
四月十二日日船師の三十三回忌を迎え朝齋を設く。かつ今日より第二十六巻教機時国抄の啓蒙を創む。
五月二日覚眼院の三回忌に依って饗応を両奉行等に設く。三日第二十七巻の啓蒙を創む。今日日高氏来話す。その語中遠慮の旨有り、故に向後覚意の書札往復の儀を止めんと欲す。またその語中まさに去冬大樹総じて流人を制する沙汰は謀略にして実義に非ざる趣きを知る。云云 また頃日三角善左来たり、つぶさに作太遺書等の儀を語り、かつ向後作太に替わらざる懇意有るべき旨を約す。また快心より覚?の年譜等を借用して周覧するに新得多し。十六日夜に入って三角氏日高氏来たり閑話、各信物有り。なかんづく新板の江戸鑑披閲するに興有り。また密かに中間の廻状を持参すと雖も三伯等座に在るの故に今夜これを披かず。云云 また頃日空泉帰国して新山の住持と為り、また浅山氏の継母死去の忌中を聞き法華の石経を書写す。まさに知んぬ、彼また内に信心有ることを。また比来首書を大集経に加う。十九日比来第二十八の啓蒙を成就し今日より第二十九及び三十の啓蒙を並び創む。明日松尾宗二の三十三回忌を迎えて饗応を設く。云云 また頃日新助をして史記を抜萃せしむ。
六月二日藤井三左飯田平允山口兵太夫の代わりと成ることを告ぐ。明日平允来謁す。六日三十一巻の啓蒙を創む。十日朝齋を二十余輩に設く。十四日江府より飛脚到来、式少隠居し家督を又次郎に復すを聞く。但し三万石の内三千石を分知して式少の領と成すと等。云云 家中一同当家中衰微の先兆を悲歎す。当五月湊柱領主の波計土器酒一滴無し。或いはこの先表たるべきか。云云 明日飯田氏を以て祝儀を内膳及び家老等に宣ぶ。二十四日比来二十九より三十二巻に至る啓蒙を成就す。
七月五日心鏡より状来たる。かつ然るべき屋敷を求めて野僧に寄進すべき趣きを告ぐ。また浅山氏来たり閑話し、法門を問訊する有り。かつ深草元政予に贈る書簡を見せしむ。十四日夜来大風洪水庵の灯明を点ずること能わず。夜中宇宿伝左等より風見廻りの使いしばしば来たる。云云 夜明方に庵及び文庫等の破損を知って驚く。かつ廊架の屋根を吹き破る故に今日より明朝に至るまで傘を用いて廊架を往還す。かつ聞く、城また大破損有り。云云 十五日の暁天風やんで洪雨降り日出の後に至って風雨共にやむ。まさに盆供を修すること例の如し。かつ当夏心地調練念慮滞らざるを喜ぶ。今日快く解夏しおわんぬ。十九日夜に入って日高氏八代氏三伯来たって閑話す。世出の雑話、なかんづく皆いわく、分地の災い式少登城を望まるる趣きより起こる。はなはだ主膳の遺命及び式少年来の所存に相違すと。云云 かつ聞く、領内の田畠風損五分の一有り。また浜に無数の死鳥有り。これ即ち夜中高波王子松原の樹梢に打ち上げし故なり。云云 かつ内外破損の普請頃日ようやく成る。
八月十一日朝齋を二十余輩に設く。かつ聞く、頃日正龍寺碩峯逐電すと。十五日比来霖雨今夜いよいよ滂沱たり。故を以て客を招くに及んで月を拝して勤行し深更に至って休む。十六日夜に入り三角氏日高氏八代氏等来たって閑話す。その中大雷鴻雨半時程にしてやむ。かつ菊池東奄フ二男春国博学の誉れ有り。(春国後新三郎と号す) また当地神宮寺五兵衛聖堂の学寮に入る等を聞く。
九月十日下僕孫七累年の勤仕に依って頃日休息の為暇を乞う。今夕平六をして望みに任する旨を伝えしむ。多年僮僕の貞を得甚だ修行を扶く。これに依って心に他日また見放すべからずと期す。かつその代わりとして関右衛門来たって奉公を勤む。云云 十九日了閑より状来たり啓蒙板行武村氏と相談の趣き(雑用八九貫目に及ぶべし)及び世雄と慈円の和睦事成る。故に冬中万部の石塔を八幡山に送り遣わすの兼約並びに取要院学問秀発の誉れ世間に隠れ無き等の趣きを告ぐ。かつ常賢院日淳七月十六日逝去の訃音を聞き丁寧に回向す。弟子覚賢??有り。云云 また頃日試みに啓蒙自序の草案を作りまた文選、史記、荘子、左伝等に付け紙して平六等の三人をして透透これを抜萃せしむ。