萬代亀鏡録

説黙日課:9(日講上人)元禄四〜元禄五

十九日大坂より状来たりまさに慧光院(流聖賢師弟子)等の三人法義を守るに就いて断食読経三十余日、色力なお強健、仏力なるべきか等の事を聞く。後便更に三人死亡の日を聞き丁寧に回向す。また武村氏より新板の書籍到来、連連電覧。かつ鵞峯文集の板行を聞くと雖も高直なるに依って他年を期す。また渋谷宇右玄豊同道夜に入って来たり閑話す。便りに因ってつぶさに受不及び悲田祖師の制法に背くの條目を談じ、かつ野僧諫暁の巻物なお上覧を期す等の趣きを語す。彼よく承諾す。また伏陽童児女の詩及び南都大仏殿讃頌集等の沙汰有り。云云 二十日北本涅槃及び後分の首書今日成就し更に大論全部の首書を企つ。今日渋谷宇右より謝使有り。かつ玄豊に託して諫暁の巻物一覧を懇望す。故に即ちこれを遣わす。後聞く、玄豊をして読ましめその全篇を聞くと。云云 二十二日江府より欽悦の状来たりつぶさに庭養の派都合七十五人六月の末籠舎、七月十二日八丈小豆等の五島に配流せらる等の事を告ぐ。また聞く、慧光院(六十二才)五月一日より断食読経、七月三日に至って逝去す。総じて生涯の読経三万部。かつて塚を築く等。(先便懐円の状にいわく、慧光読誦一万八千部。いずれかこれ) かつ浄地院日護及び齋藤自得の内室本栄日千の訃音を聞き慇懃に回向す。後便また聞く、江府に法義を守る僧なお五十人程有り、俗の清法称計すべからず。また七十五人の名及び五島配流の書付を送る故につぶさにこれを知る。云云 また頃日天昌の弟子湛応江府より帰り来謁す。二十七日まず観音玄の余残一紙程を講じおわってまさに起信論の註疏の講を創む。聴聞の徒天昌正龍城宝寺等なり。今夕平六等の三人祝儀の饗応を設く。云云 二十九日安国論啓蒙第三度の清書今日成就す。
九月朔日述師の忌日に依って饗応を二十余輩に設く。四月今朝尻辺に腫物坐行安からず。明日向井吉左を呼んで腫処を見せしむるに、いわく、これ痔なりと。即ち膏薬を用い、かつ内薬を服し忽ちに験有るを覚ゆ。云云 六日起信論を講じおわって夕の饗応を聴衆三寺等に設く。また安国啓蒙の條目成就し、十日より開目鈔啓蒙再治を創む。また比来朱を賢愚経、楞厳三昧経、方等陀羅尼経、入大乗論及び三国伝記等に加う。
十月四日佐州の妙相より状来たる。かつ聞く、当夏悲田穿鑿のみぎり余殃また清法に及ぶ。故に学雄止むことを得ずして受不施と成るの手形をしたため当位の難を免る。妙相、権左等法義を守る事別条無し。云云 学雄また口上の覚えを平六に送る。学雄もし手形を為さざれば妙相等清法を汲む事成り難し。故にこれを将護して自ら濁法に帰する趣き有り。あたかも大悲代受苦の志に似たり。その陳謝する所虚実知り難し。云云 他日返書をしたためしめてこれを遣わす。十三日朝齋を三十余輩に設け、かつ一念不生前後際断覚心初起心無初相の旨を新得すること有り。
十一月七日三角氏より石塔の儀を告ぐ。江府既に調うと雖も宇宿氏比来逼塞せり。故に当表中間相談究め難し。頃日宇宿氏逼塞赦免せらるるの條きっと中間の相談を遂げ、今一往江府に往復して後首尾相調うべし。云云 後日平左を宇宿氏に遣わし逼塞御免の祝詞を調う。云云 十三日像師三百五十回忌に依って別に御齋代を除き置くほか更に饗応を営む。明日関清の十七回齋代を除くほかまた饗応を設く。十六日聞く、樺山主馬累年病気、近頃快気に依り今日始めて公場に出づ。後日また私宅に来たって五年を隔て対謁す。十九日夜に入って三角氏酒匂氏三伯等来たり閑話す。聞く、家康に過ぐる物二つ有り、唐首と本多平八となり。この落書の唐首とは四品以上に裁許なり。(三角氏これを告ぐ) 予年来聞く所と異なるが故にこれを記す。二十三日朝齋を二十余輩に設く。云云 明日新助源助に抜萃せしむる所の史記成就す。二十六日宇宿伝左来たって先日の使いを謝し、かつ逼塞の由緒を語る。云云 また頃日江府より命有り、新右衛門の跡職三角善左に決定せり。予善左辞退せんと欲すと聞き呼んで異見を加う。彼ほぼ諾すと雖も今一往愁訴すべし。云云 後に聞く、愁訴状を家老に達すと雖も家老諾せず書付を還す。故に是非に及ばずついにこれを承諾す。云云
十二月六日夜に入って三角氏酒匂氏兼約に依って饗応を野僧に設け馳走すること丁寧なり。三伯等また来話す。明日新助を遣わして両人に謝し、両人また礼の為来たる。十七日調所十左の訃音を聞き平六を遣わして弔問し、丁寧に回向す。昨暁先兆の夢有り。云云 かつ臨終の前後懇望に依って新たに道号を授く。云云 二十七日今日より別行に入る事例の如し。かつ予め来年よりいよいよ客を招くを省き、及び正七極のほか詮無き音物を止むる等の格を定む。云云 かつ聞く、二十九日三角氏来たってつぶさに新右跡職領掌の趣きを告げ、かつ野僧節節異見を加うる儀を謝す。妙輪また吉賀半助を遣わして善左に異見するの一礼を述べらる。云云 また比来好夢多し。或いは著述或いは談義、或いは元祖最初建立曼荼羅の相、或いは起顕終の法門等なり。繁き故に詳記せず。

元禄五 壬申  六十七歳

正月朔日日待拝読御祈祷経三処の看経。学初め書き初め等恒例の如し。二日試筆を霊前に献ず。かつ予め当年より日課並びに読経記録の数を定め、また余命測り難き故に当年より別して啓蒙の再治を励む覚悟なり。七日年来日課に書き置く所の数を考うるに本尊三百幅、首題千枚に及ぶ。これに依って平六をして三清、了閑、照円等の十輩に分配せしめ、兼ねてこれをしたため置かしむ。唱題を勤むるの部数例の如し。頃日梅花皆散じ早や桃花開く。云云 十七日夜に入って樺山左京、伊集院善左、三伯来たり閑話す。頃日朱を烈女伝に加えおわる。二十一日京都より書籍来たる。なかんづく四阿含経、増続韻府、連連歴覧して朱或いは首書を加う。歌書十三代集もまた当便に来たり往往電覧す。また心鏡より状来たる。橘の厨子、住宅を野僧に寄進す。云云 まことにこれ求めざるに自ら得。凡慮の測る所に非ず。また頃日平田道活式少の招に依りて奉公を志し大坂に赴く。云云
二月朔日朝齋を二十余輩に設く。かつ聞く、延岡の有馬九衛門所替えにて越後頸城郡糸魚川に移さる。二十五日八代氏及び玄豊夜に入って饗応を私宅に設く。三伯等(善左、吉右)相伴と為り、馳走丁寧なり。閑話夜半に至る。かつ金丸伊右学問の為近日上洛。今夜来たる故にまず離緒を述べて在京の間もっとも友を撰ぶべし等の事を示す。
三月五日開目鈔啓蒙再治六巻成就す。しかして撰時鈔の啓蒙再治を創む。七日渋谷宇右参府、暇乞いの為に来たり、かつ石塔の儀きっと相究め江府より注進すべきの趣きを約して去る。かつ石塔内証肝煎り伊集院善左に催促すべしと告ぐ。云云 明後日平六を遣わしてこれを謝す。頃日聞く、三浦伊岐守(本下野壬生に在り二万石を今度三千石加増)延岡に移住すと。十九日樺山主馬伊集院善左及び三伯と来たり閑談す。ただ歌物語にして敢えて法語無し。云云 かつ今夜閑談彼方より催す故に明日早速謝使有り。云云 また頃日十輪寺新築多景に就いて野僧一覧の儀を懇請す。啓蒙著述の故に禁足すでに六年を歴ると雖も止むを得ず遊覧の日限を定む。かつ聞く、黒貫の快心また相伴としてこれを招くと。云云 また比来結綱集、開奩編及び弁疑並びに本朝遯史等を展覧して朱を加えおわんぬ。二十五日映時十輪より迎え来たり、輿に駕して出でて路次谷の入り組む所を廻見し、高麗町を歴て愛宕坂下に至り、輿を下りて嶮岨を攀昇す。息急にして汗出づ。既にして客殿に入りまず景物を見るに聞く所に過ぎ普請もまた巧妙をつくす。快心法印相見て悦び閑話時を移し敢えて世話無し。正龍及び道意また相伴として馳走丁寧。喫飯の後快心帰宅す。その後屋敷を巡見し、宮の辺を徘徊し、海辺を望むと雖も空陰りて海を見ず。座に帰りて後の飯吸い物を賞し、暮れに及んで裏道を歴て帰宅す。十輪即刻謝の為に来たる。明日平六を遣わしてこれを謝し、かつ快心に伝言す。云云 他日快心より使い有って律詩一首を送らる。予地蔵の縁に就いて占察経等の意に依って和韻二首をしたためこれを遣わす。云云
四月七日町より三清、照円、内藤七郎兵衛、前田源右衛門の渡海を告ぐ。即ち平六を遣わして時宜を宣ぶ。夜に入って吉左四客を同道して来たる。照円源右始めて対面閑談時を移し、かつ金泥銀泥の御経を頂戴し及び啓蒙を見せしむ。深更辞し去る。明夜平六を町に遣わしかつ三人を問う。九日球磨に赴く、前田氏当地滞留。云云 今便心鏡より状来たり、橘厨子住宅かれこれ宜しからず。故に転じて余所に求めんと欲する趣きを告ぐ。云云 また覚照院日體月十三日逝去を聞き、驚いて牌をしたため一部の真読を創む。二月八日覚照の状来たる。当六月悲母妙教年回廻向の儀慇懃にこれを恃む。まさに知んぬ、最後の書信たることを。十日夜に入って前田氏懇望の上剃髪を表して儀式を調え去る。向後連日諸方より恃み越す所の本尊等をしたたむ。十五日三清内藤氏球磨より帰る。夜に入って雨を凌ぎ来たり閑話す。かつ球磨日浣を追慕し廟参の徒を馳走すること法に過ぐと聞く。明夜平六等を遣わして頃日したたむ所の本尊等を送り、かつ餞別等を贈るに人別差有り。円照球磨より長崎に赴き重ねて当所に帰ること不定なるを聞く故に三清に付して遣わす。また三清の所望に依りて野僧没後付与の物自筆を以てこれをしたため遣わす。十七日に至って三人帰駕。今般内証の対面故障無き事松本氏の才覚に依る。故に後日新助を遣わしてこれを謝し、かつ進物を送る。平六追って今般諸方の進物施物等を考うるに一貫目に及ぶ。予これを聞くと雖も敢えて喜心無し。却って信施の重畳を恐慮し、かつ高祖の縦得夢中栄不珍楽也の観念を凝らす。云云 二十日伊集院善左新右の宅に移徒すと聞き使進を善左及び妙輪に遣わしてこれを祝す。明後日善左来たり謝し、かつ祝い物を持参す。妙輪また使進有り。また昨現常の年廻に依って饗応を設く分平来たり謝す。また野僧痔病或いは癒え或いは発す。故に節節向井氏の薬を用う。頃日灸治快気これ幸いなり。
五月朔日兼約に依って野僧五種の妙行已弁の記録を快心に遣わす。また天昌追って先日予快心の作意に和する二首の韻をつげらる。故に同じく十輪に託して快心に伝う。云云 六日江府渋谷氏浅山氏よりの状主馬よりこれを達す。その中石塔の儀きっと肝煎りすべき趣き有り。云云 八日厳有院殿の十三回忌に依って丁寧に回向す。江府の清法断滅故にかつて流人赦免の愁訴有るを聞かず。云云 明日樺山左京より曝帷子を平六等の三人に送る。晩天平六謝礼の為に樺山氏の宿に往き、予また語を左京及び主馬に伝えてこれを謝す。云云 十六日日高氏、八代氏、三伯、璋庵来たり閑話す。日高氏江府聖堂の図及び諸大名献上物の記録二巻を持参す。他日平六をしてこれを抜書せしめて返弁す。十七日藤井氏所用有って宇宿伝左に到る。伝左石塔の儀十分ならずと雖も今便調え来たることを告ぐ。云云 十八日晩天伊集院善左来たって石塔の儀江府より調い来たる趣きを告げ、かつ江府よりの手簡を見せしむ。披いてこれを見れば石経を埋め及び野石を立て供養するの儀妨碍無かるべし。但し首題の七字を書き顕す事は用捨有るべきかの趣き有り。云云 当時所存の旨有りと雖も年来の大願成就す。故に冥伏して時を待つの覚悟これを定め、大体の会釈を設けて家老に酬答す。二十一日大工今村茂右を呼んで石経八巻八函を収納する所の大函の分量を指図せしむ。槙板の厚さ一寸五分、亘し四尺三寸、高さ二尺五寸。云云 則ち町の問屋弥兵衛より槙板を求め得たり。二十三日覚照院の卒哭に依って饗応を設く。かつ町に石塔下地の石有りと聞き藤井氏を以て樺山主馬と相談の上近日彼の石を取り寄するの儀これを究む。二十六日八重尾伊兵衛を裁料として大勢を催し町石を挽き来たる。まず新山裏門に入る。人石供に恙なし。故に心中これを喜ぶ。明日鬼宿故に暮れ方に及び飯田次郎右を裁料として近所の下夫を催したやすく石を引いて私宅書院の庭に安置す。予石を見て深く自ら慶幸し偏に仏加にして自力に非ざることを信じ、六難九易を思い合わす。云云 かつ伊集院氏に託して今夕石を私宅に取ることを主馬に告げ、かつ塔銘草案の趣きをしたため家老に達せしむ。また立塔の月日を七月十五日と書き付くる覚悟なる故に予め算勘せしむ。七月に至って部数その都合これを記録す。云云 二十九日善左来たって家老所存の旨を伝えていわく、題目既に江府より用捨し来たる故にただちに諱を書する事遠慮無きに非ず。或いは仮名を用いらるべきか、また解説書写の数及び経文また他事に亘る故に然るべからざるか。ただ読誦法華万部願満の趣き書き顕さるべし等。云云 予聞く、当時題目を禁ずるを以ての故に例して知んぬ、諱を書くも妨げ無きことを。もし実名を書せずんば何ぞ題目を禁ぜんやと反詰せんと欲すると雖もまた遠慮を懐き、かつ今暁瑞夢有るが故にこれを抑えて懐に在き、他日の愁訴を期し相応の挨拶を善左に家老に酬答せしむ。然りと雖もかくの如くなれば更に一向無沙汰の儀還って経王の威を失わんことを恐慮し、つぶさに法華の題目はこれ公物にしてしかも三国伝来、諸宗相承なれば敢えて禁忌すべき道理無きの趣き及び予め歌書に勅勘の人を以て読み人知らずと載するの妨難を遮し、古来ついに流人の諱を忌む例これ無き等の旨を記し、明日一礼を宣ぶるの次いで善左に託して家老に達せしむ。云云
六月三日石経外家成就。暁天兼ねて石経函に入るる意趣書を板札の表裏にしたため、まず霊前に備う。云云 五日予まず至心に石の傍らに塔の銘を書き付け開眼の事おわり欣幸少なからず。即ち八重尾氏及び有村理右衛門これを刊す。明日両人及び飯田次郎右来たって倶に銘を彫る。故に字毎に薄を入れ、晩方に至ってまた成就す。七日今日石経を埋め石塔を建つ。故に暁天より読経誦呪一心不乱、かつ予めその式の次第を平六等の三人に下知す。朝間少しく雨ふると雖も即ち止み地をほるを妨げず。午前功成ってまさに石経の函を埋め、かつ湿気を除くが故に炭を以てこれを詰め、かつてしたたむる所の五種の妙行及び顕志意趣の板札を石経の外家に収入しおわって大工をして大釘を函蓋の数箇所に打たしめてこれを固め、まさに土を傾け地を平らにし更に塚を築き上ぐること高さ一尺。然して後石塔を地の中央に建て土留めの板を構え、苫葺き竹垣また即時成る。諸人休息の時なお?時なり。今昼今夕饗応差有り。またかつて小石を求めて調所新七、飯田長八をして五種妙行の意趣書等を刊入せしむ。今日事成ってその小石を石塔の下に収納し、首尾残り無く巨願成弁。云云 暮れに及んで八重尾氏等時宜を調えて辞し去る。夜に入って洪雨滂沱これまた不思議なり。云云 八日一部の真読を成就して備え奉る埋石塔成立して祝儀物を八重尾氏等の三人及び家老番衆等に遣わすこと差有り。明朝朝齋を若干人に設くるの砌、八重尾氏来たりこれを謝す。また今明日近所の真俗等来たって塔を拝するの徒これ多し。云云 また今日藤井氏の勧めに依りて即ち藤井氏を以てこの節経蔵を別処に移し、ひそかに造作を営まんと欲するの志願を宇宿氏に達す。十三日藤井氏来たって宇宿氏の口上の経蔵公儀より造営有るべしの返詞を達し、重ねて予が志の趣き懇ろに告ぐるに依って明日中間に披露し相談の上十五日に至って家老中より経蔵自営その心に任すべきの使い有り。即ち藤井氏を以てこれを謝す。また頃日山伏肝付実相先非を悔いて立入を望むの趣き十輪寺来たって慇懃に愁訴す。故に野僧即ち諾す。他日実相来たり謝す。云云 十六日経蔵の造作を町の衆に相談せし処、松元茂右来たって様体を窺う。他日壁塗り権左を同道し来たって経蔵始終の雑用を告ぐ。束ねて権左請け取りこれを望む。(雑用分限二百五十二匁) これを伝聞して思惟に及ばず平六をして彼の所望の如くこれを究めしむ。既にしてこの仏事また早速成弁せり。もっとも行学に便なるが故なり。云云 二十日経蔵普請初めこれ有り。二十一日これをくずして新蔵の地に運送す。二十二日柱立ち棟上げ。大工九左衛門父子累日来たり営む。予また対面。二十五日先便に京都友正院日暁当五月六日逝去すと聞き、比来丁寧に回向す。今日尽七日たるに依って朝齋を設く。云云 二十六日今日鬼宿の故に石塔屋敷の総廻りに分限の土手を構え人馬芝を運送し来たる。晩天金丸分平これを営むに即日成弁し、また明日より経蔵の壁を塗る。
七月五日京都より書籍来たる。なかんづく婆沙論連連電覧朱或いは首書を加う。本草綱目、万葉集等またこの便に来たり。六日備作より状来たる。三清等の四人無事帰国し、またかつて誂え遣わす所の啓蒙類本書写これを許諾し、左右三四人これ有る等の事つぶさに達す。また今日経蔵の内塗り成就。即ち平六を松元吉右に遣わして経蔵成就の祝い物を造営の棟梁三人に送り、かつ雑用の銀子若干を与う。云云 棟梁三人また他日祝い物を捧げて来謝す。九日日浣の十七回忌に依って朝齋を設く。明日澤次郎兵衛の訃音を聞き平六を遣わして弔問す。当初の懇望に依る故に本尊を授け丁寧に回向す。十二日今日吉辰たるに依って仏壇を経蔵に移し奉りかつ書籍を納め読経誦呪中心潔白なり。云云 十五日盆会供膳等例の如し。更に香華灯明を石塔の前に備う。かつ明日より日課として自我偈及び題目、此経難持を誦し石塔の牆外をめぐること三?。二十二日江戸より飛脚有り、当六日領主婚礼首尾よく相調うの趣きこれを達す。即ち藤井氏を家老等に遣わして祝詞を宣ぶ。また今日経蔵外表の白壁成弁もっとも潔し。云云 また頃日聞く、山口権太夫江府よりの命に依って早速家老職に任ぜらる。但し当家の家老と内談の引き合わせ無し。云云 他日平六を権太夫に遣わしてこれを祝す。二十六日刃傷の諸霊第七回忌たるに依って朝齋を十余輩に設く。また十輪寺と内談の上十輪より特に石塔の垣石を大坂に遣わす状即ち源五の船に付す。云云 二十八日松元吉左上方より帰宅し。武村氏送る所の書函、世雄伝うる所の紙袋等を達す。その中江府欽悦、大平氏、岡田氏等の状これ有り、まさに無事を知る。云云 かつ新板の京絵図を見て感興少なからず。
八月朔日博山警話を閲して朱を加え、新得これ多し。また山口権太夫来たり閑話。先日家老職を祝する使いを謝す。また先便領主より家老中に遣わす状の中既に山口氏の名を列ぬ。故に敢えて辞退し難し等の旨を語る。云云 他日如何。また頃日首書を釈大衍論及び三師釈等に加う。また松元吉左来話。かつ家内重宝記並びに南都万僧供養の絵図を送ってこれを見せしむ。云云 四日藤井氏ひそかに石塔の茅葺き木柱風雨を防がんと欲する儀を宇宿氏に窺うの処敢えて別条無し。故に一夕大工茂右を呼んで指図を究めしむ。九日石塔の上屋成就、大快。また頃日新七の母及び祖伶の母の訃音を聞き牌をしたためて回向す。かつ新七に託して祖伶を弔問す。云云 十七日松厳院殿の十七回忌に依って饗応を三十余輩に設く。石塔の前毎日香華灯明を備うるの式を定む。十五日暮れ方月を拝するに名月清朗たりと雖も彼岸の中日なる故に客を招かず。伊集院善左及び日高氏等より信有ってこれを賞す。十六日終日客に接す。昨伊集院善左番頭役に任ぜらると聞く。故に今朝使いを遣わしてこれを祝し、かつ昨信を謝す。故に午後来たって閑話す。上屋及び経蔵を見せしむ。その他道意、宗是、日高氏等の十余人塔を拝す。今夕また夜話無し。云云
九月朔日浅山氏江府より帰宅すと聞く。故に今日新助を遣わして時宜を調う。(浅山氏足痛に依って婚礼前より奉公を勤めず。足痛今に未だ止まず) 他日使いを以てこれを謝せらる。また伊集善左に託して石塔肝煎りの一礼を浅山氏に宣ぶ有り。五日写物を伊覚に遣わさんと欲する処たちまち訃音を聞き、即刻人を遣わして弔問し、牌をしたためて丁寧に回向す。七日佐州の妙相より便有り。かつ義勝院の書札始めて来たり、他日返書をしたためてこれを遣わす。十日了閑、三清、森清左等の状来たる。累日恃み越す所の本尊首題等の百余幅をしたため、かつ返書をしたためしめ船便に付して遣わす。十八日池上権左、長友四郎右来たって築山を庵の下に営み、眺望楽しみ有り。云云 また天昌来たって二十一日の嘉招を約す。また頃日浅山氏より水戸常三公自作の墓銘、その外詩歌等を送ってこれを見せしむ。他日これを写さしめて返弁、これを謝す。かつ聞く、高野行方の七百余人面縛入籠。山中静謐。松平下総改易(知行五万石)及び稲葉泰応(美濃守人道)大樹の召しに依って登城閑話名言を吐く等の事。云云 二十一日午後天昌寺に赴く。藤井氏、日高氏、道意等相伴。門に入ってこれを見るに蘭若旧に依って壮観これ新た。長庭広家点塵を絶し、仏閣食堂奇麗をつくし、更に山を築き池を開いて馳走の験と為し、芳膳珍菓賞翫間無く、閑話時を移し、暮れに及んで帰宅。即ち新助を遣わしてこれを謝す。天昌また正龍と倶に来たってこれを謝す。今日法華論科註を持参してこれを与う。云云 後日律詩及び絶句を賦して天昌に贈って篤志を謝す。他日天昌和韻を持して来たる。云云 二十七日樺山左京病急なるを聞き使いを遣わして訪問す。暮れに及んでたちまち訃音を聞き平六を主馬及び善左、妙輪等に遣わし、かつ戒名を聞いて牌をしたため、一部真読を創め、累日自我偈を誦し丁寧に回向す。かつ二十八日の夜寺に於いて葬礼の儀式有り。もっとも厳重なり等と聞く。
十月四日関嶺の一七日なるに依って朝齋を二十余輩に設く。云云 また頃日報恩鈔の啓蒙再治三巻成就す。また頃日関嶺追薦法華頓写の砌大安寺綴る所の頌を見るに作意宜しからず。また伊集善左手簡を以て関嶺追悼自作の詩の添削を請う。即ち句中に妨げ有るを示し文字を改めしむ。云云 七日観心本尊鈔の啓蒙再治を創む。初巻はかつて再治す。故に第二以下また引用の古抄及び引証の煩文を略するのみ。故に存外早速成就し五巻が縮めて四冊と為す。云云 十三日会式の饗応例の如し。明日町田孫右の訃音を聞き平六を遣わして弔問し、牌をしたためて慇懃に回向す。十六日夜に入って伊集善左、日高氏、三伯等来たって閑話し、二更の後辞去す。また今日浅山氏より五明及び菓子を送る。明日新助を遣わしてこれを謝す。次に浅山氏より讃州丸亀通如、東武往還紀行の詩歌を送らる。電覧目を驚かす。ただ漢字和字脱誤繁多、文言相連し難し。故に透透改補して平六をして清書せしむ。詩及び長篇等点を加う。酒匂氏の懇望に依ってこれを遣わして見せしむ。他日写し留め、かつ浅山氏の一覧に備う。云云 十九日本尊鈔啓蒙再治成就し、第九巻取要鈔啓蒙の再治を創む。今日山口藤兵来たって三卜の曾孫童女(権太夫孫)露玉歿後の夢を告げ、野僧の回向に依って苦を脱する等の趣き及び夢中和歌一首を記し得る等の儀を告げ、丁寧にこれを語る。予感情の余り夢相和歌の句意を点示するに彼感を催して去る。既にして牌をしたため過去帳に入れ慇懃に回向す。二十五日録内第九啓蒙の再治成就し、第十の国家論啓蒙の再治を創む。頃日隙有り、朱及び首書を左伝に加う。かつ浅山氏より南濠詩話及び明朝七才子集等を送ってこれを見せしむ。
十一月五日国家論啓蒙の再治成就し、第十一法華題目鈔啓蒙の再治を創む。また初秋以来学問処を経蔵の二階の上窓の前に構え、寂然として障り無く、一心勤学し、或いに本尊等をしたたむ。かつ比来痔疾発せず。久座倦むこと無し。故にますます夜学に便なり。故を以て啓蒙の再治次第に速成す。十三日朝齋を二十余輩に設く。比来録内十一二三の啓蒙再治成就し、十四巻を創む。十四日油屋宗俊昨夜逝去すと聞き新助を遣わしてこれを弔い牌をしたためて回向す。十六日夜に入って伊集善左、酒匂吉左、日高氏等来たり閑話し、世出交談し、かつ一字三礼の御経を頂戴せしむ。皆悦ぶ。云云 かつ聞く、宇宿伝左近頃しきりに家老役を免れんことを訴う。また山口権太辞退無くして加判役を勤むるに就いて種々の落書等有り。云云 二十三日朝齋を二十余輩に設く。頃日平六をして婆沙論を書き集めしめ全部の目録今日成就す。かつ戒体即身義引く所の婆沙の本拠を考出し、字誤字倒等野僧の推度と符合せり。故に中心恰然たり。云云
十二月樺山主馬また家老職を免れんことを訴うと聞く。云云 予あらかじめ思察するに家老両人免役を望む趣き恐らく他日家中騒動の基たるべきか。云云 また頃日読経の功徳を工夫するに新得これ多し。一には読誦はこれ真如内薫の直縁を引き発す。二には信、経と合すれば他の宝を数うるに非ず。三には今経塵点は事成の妙境なり。故に文文句句を転ずるに随って直入果海の捷径なり。四には読経はまたこれ始本不二を指的する要路なり。云云 しかのみならず迷方の喩え、無始無終の元意及び夢勤加功、夢醒悟道の深旨等を得。七日頃日主馬と権太と月番の儀に就いてしばしば往復有り。権太腹立ちの余り月番の帳箱を持たしめて直に主馬の宿所に参ず。主馬深く慮り病に託して対面せず。故に権太空しく帰る。主馬もし出合わばたちまち大事有るべし等の事を聞いて笑止窮りなし。これに依って他日主馬書付を以て暇を領主に請う。云云 十日録内全部の啓蒙の再治を成就し、巻の次第を改めて三十六冊と為す。然るに再治その功速成すと雖も字の誤りを糺さず和点を加えざる処なお多し。かつ未だ本拠を勘えざる條考え出すに随って追って書き加えしめ、かつ平六をして更にこれを清書せしむ巻数多し。故にまた星霜を歴。云云 また頃日河野弥太夫病に依って帰国の船中病いよいよ倍し室に於いて逝去の趣きを聞き、大町氏を以て戒名を宿所に尋ね聞き牌をしたためて回向す。云云 また江府山野信女妙感日仁本尊及び歎徳を懇望する有り。他日したためてこれを遣わす。十六日終日庵に在って客に接す故に隙を費やさず、かつ本尊をしたたむ。云云 また今日酒匂氏、八代氏の物語に依ってつぶさに権太にわかに家老と成る首尾等を聞く。その源右京の私心より起こる。渋谷宇宿江府に在りながら領主と右京との間に内通す。故に内談を当地の家老に遂げずして直ちに加判役を権太に命ずる等の趣き有るなり。かつまた今度主馬と権太と齟齬の後当地の番頭及び使衆一同連判して(その談合の宿即ち伊集善左なり)向後いよいよ宇宿氏、浅山氏を家老に仰いで敢えて権太の指揮を用うべからず等の事を江府の領主に訴う。またその連判の写しを宇宿氏浅山氏に達す。故に両家老右京を隔てずしてその写しを見せしむる処、右京虎狼の心を懐き密かにその写しを権太に見せしむ。これに依って権太兼ねての巧を重ねて公儀を破る私の連判の法度の條を立てて連判衆を陥し入るべきやの公事とかく大事と成るべし等。云云 十七日備州より便り有り、聞く、日相大倉八左の内室に授与する本尊授与書の文言敢えて妨碍無き趣き露顕す。故に日指方帰伏する者これ多し。かつ本尊懇望の衆多く平六をして帳に載せしむ。また江田十右衛門(了覚院宗順)十月十九日逝去すと聞き牌をしたためて一部真読を創む。また頃日越後村田妙法寺の住持陽春院日光(所化名随光)当正月八日遷化し、鳥羽の真正院日随当八月二十一日逝去すと聞き牌をしたため慇懃に回向す。また武村氏より書櫃到来。なかんづく四十華厳、釈門正統、続谷響連連周覧し、朱或いは首書を加う。二十四日年来一僕にては勝手宜しからざるに依って相談の上来年より更に一僕を加えんと定め藤井氏を以てその趣きを宇宿氏に達す。他日その意に任すべき酬答有り。故に都於郡の庄右衛門に兼約し近日来たり勤む。二十七日別行に入る。行中毎日本尊をしたたむる事例の如し。二十九日今夜節分日待。尋常の日待なれば明日は臥息せずと雖も、明晦日の夜もまた例年の日待なるが故に晦日昼間二時臥息す。云云 今年の欣幸、一は本経神呪等合して二万部成就す。二は石塔を建立し及び経蔵を移す。三は啓蒙再治大抵入眼。云云