萬代亀鏡録

説黙日課:10(日講上人)元禄六

元禄六癸酉

正月朔日日待御祈祷経を拝読し四処の看経を(更に石塔加う故)学初め書き初め及び試毫を霊前に献ずる等例の如し。云云 今夜丑の刻火事の太鼓しきりに鳴る。故に庵に登ってこれを見れば近年これ無き回禄なり。寅半ば火止むと雖も風烈しきが故に大家数多眼前に焼失す。云云 五日去年二万余部成就に就いて部数入り組む故に今日より平六をして更に算勘してこれを定めしむ。十日上山勘兵衛の訃音を聞き平六を遣わして弔問し、牌をしたためて(春睡一夢)丁寧に回向す。十一日看経の内忽然として本尊首題の書写を加行し、近年の内に一万部を成就せんと欲するの願を発す。ここに因って今月まず本尊等の加行を備う。十六日終日客に接す。客もっとも繁多。旧冬以来当処物騒なるに依ってまず今夕の夜話これを止む。十七日起信註疏を講ずるのついで城宝寺、瑞光院宗是等に謁す。また当年より二十日を加えて御経日と為す。云云 二十三日一夢の二七日に依って朝齋を設け、かつまた上山三左を勝手に招いてこれを饗す。三左自詠二首の歌懐紙持参す。云云 予取り敢えず返詞二首
 さきだつも思いしれとや後の世を親にすすむるためしなるらん
 定めなきうき世を春のゆめぞともおどろきあえぬ身をいかにせん
二十六日備前より便有り、詮量院日松旧臘十二日逝去すと聞き、かつ遺言に依って予に引導を恃む等。云云 晦日藤井氏来たって、同役を富田権右に定むる旨を告ぐ。他日権右来たり謁す。頃日食時また余語を交えず一心唱題の旨を夢む。因って懐う、覚時用食の方軌為るべし。また志遠法師の誦法華者昼楽夜安の言に就いて省みること有り。云云
二月十三日日達僧都三十三回忌、覚照院一周忌、及び日春の忌月に依って既に齋代を入ると雖もまた饗応を修す。また島津半兵衛の後室の懇望に依って本尊を息女千代に与う。(道号を授け直心妙貞と云う) また比来新助源助をして連連類本啓蒙を書写せしむ。云云 二十六日浅山氏より菊地新三郎等歳旦の詩を送らる。予一覧してまさに江府儒士の風俗心操宜しからざるを知る。また去る頃科木氏より江府内田氏の娘篇する所の桃山詩藁を送ってこれを見せしむ。云云
三月二日江府より便り有り。欽悦等の状来たる。去冬十月二十一日日庭佐州に於いて遷化すと聞き牌をしたためて一部の真読を創む。日庭当初野僧と題目講一結の衆なり。因って懐う、四聖の先縁唐捐なるべからず。云云 かつ欽悦の状中夏中渡海すべき趣きを告ぐ。また比来釈迦譜を見て朱を加え新得これ多し。かつまた透透釈論啓蒙に出づる所の本拠等を釈論第三重に書き入る等。五日教成院日意の十七回忌を勤め齋代を入れ少饗を設く。また酒匂氏近日参府発足に依って今日新助を遣わして餞別を送る。明後七日酒匂氏暇乞いの為に来たり閑話し、かつ餞別を謝す。予今般的便に石塔書付添加の儀を愁訴せんと欲すと雖も伊集善左に依って延引然るべき旨を告げ、まずこれをさしおく趣きを語る。云云 八日酒匂氏平六を呼んでつぶさに石塔書付の儀今般自ら肝煎りすべきの旨を告げ、かつ内意を加えて伊集善左に同心せしむる手段を示し、及び愁訴状の文体を密談す。云云 九日昨酒匂氏より内意を示すの趣きに准じ、今日平六を善左に遣わして内談を遂ぐる処敢えてこれを遮せず。酒匂氏肝煎り領掌の上今般愁訴の儀その意に任すべきの趣きを酬答す。故に即ちまた平六を酒匂氏に遣わしその儀を決定す。予因って思惟するに今般酒匂氏求めざるに自ら内意を示す。まことに愁訴成就すべきの先兆なり。已顕豈に仏加に非ずといわん。云云 この後酒匂氏善左と対談の上いよいよ両人倶に肝煎りすべきの案内これ有り。かつ両人内談を浅山氏に遂げ口上を江府の渋谷氏に達するの首尾なり。かつ野僧渋谷氏に遣わす状酒匂氏に密談し、指図に依ってこれをしたたむ。また頃日天昌の弟子機鉄関左に赴くに就いて来謁す。即ち使いを遣わして餞別を送る。二十一日京大坂より状来たる。まず日相の状を披き少々快気の旨を承知して安堵す。かつ小袖二箇を送らるるは形見の志たるべきを推量す。また啓蒙の書写京都の筆工を用いて然るべきの趣きを告ぐ。また慧雲院より片札を平六に送って向後書中平六と往復すべきの旨を諾し、かつ新六黒門道祐の遺跡を継いで髪を剃って道節と改名するを賀さんと欲する等の事を告ぐ。また比来平六して御書一部の中本拠未勘の処を書き集めしむ。云云
四月二日八重尾氏より母儀の逝去を告ぐ。かつて本尊を授与するに道号を書き留むるが故に即ち牌をしたためて一部真読を創め丁寧に回向す。累年野僧衣服洗濯の恩有り。故に感慨少なからず。かつ平六を遣わして弔問す。云云 また頃日浅山氏より聖堂祭礼の記を送らる。即ち披いて一覧してまさに思う、扶桑儒学有ってより以来未だかくの如き儒宗の栄耀有らず。仏神の内鑑是か非か。かつ深齋長篇及び自作の詩を見せしむ。周覧の後他日返納してこれを謝す。云云 七日南京追薦の為朝齋を三十余輩に設く。伊兵密かに来たってこれを謝す。十二日江府より便有り、かつ聞く、主馬の行跡失無し。故に暇を乞うことを許さず、本に復して家老職を勤めしめ、権太は科代として隠居せしめ家督は相違無く嫡子藤兵衛に命ず。云云 また頃日高音読経自ら益多きを覚ゆ。一は文句分明にして前後する誤り無し。二はよく睡眠を除く。三は散心自然に微薄。四は覚観発する時速疾に了知してこれを改む。五は高音の時は還って巻数等を倍す。云云 十六日かつて日高氏江府より帰宅すと聞くと雖も比来別行の内なる故に今日新助を遣わして無事帰宅を祝す。日高氏また即刻来たってこれを謝す。やや久しく閑話しつぶさに主馬権太の得失等の趣きを聞き、また渋谷氏加判役を留め先規の如く無役にして然も座牌を家老の上に定むべきの趣きを訴訟すと聞く。云云 午半大雷天に響き地を動がす。やや久しくして止む。十七日備州より善了、石川惣左渡海、即ち平六を遣わして今夜の対談を約す。また天昌来たり謁し、つぶさに当冬大安寺に於いて江湖興行、これに依って近日鹿児島に赴く等の事を語る。野僧即ち所作已弁に至るまで起信註疏の講をさしおくべきことを告ぐ。正龍同道またその旨を聞く。午後起信註疏読み懸けの一段少しばかりを講じてまず止め、心にその間平六等三人の為に大乗止観及び宗円記の読み懸けを講じ果たさんと期す。云云 夜に入って善了惣左来謁す。まず御経を頂戴せしめて後閑話し、深更に至って去る。かつ鞆に久しく滞留し幸いに佐土原の船を見掛けて便船を請う。故に能勢惣左衛門しばしば往復の上乗船の儀を許容せられ、能勢氏と同じく当津に入るの趣きを聞く。これに依って明日使いを能勢氏に遣わしまず一礼を宣べ、幸いに日高氏の肝煎りに依って内証対面の儀相調う。故に両人数日逗留。累日今度恃み来たる所の本尊等をしたたむ。云云 二十一日夜に入り善了また来話。(日高氏より同道俗士対面を遮止する故に石川氏重来の儀無し) かつて密かに法義吟味の問い條を見聞すと雖も妨碍無き義の故に沙汰に及ばず。かつ俗士連署の状封を披かずして返す。今度対談の内また了閑偏向高言等の儀を詳破すと雖も予敢えて聞き入れず。辞去の時に及んで強ちに小事に因って法を破るの大罪を誡め、つぶさに異体同心の巨益を示す。また啓蒙の書写承諾の左右備州に二人有り。京都には当時筆工無き等の趣きを聞く。故に善了に託して啓蒙写本及び書写代等を遣わす。云云 二十二日夜に入って平六等を町に遣わし本尊等を渡す日餞別を送るに差有り。その節また強いて破法の大罪を告げ、かつ今度の問い條重ねて問訊すと雖も取り挙ぐべからざる旨を示す。二更に及んで平六等帰宅すと雖も破法制止の言なお弱きを聞き重ねて平六源助を遣わし、強いて破法の制戒を加えて後日の証と為す。云云 退いて思惟を廻らすに了閑善了倶に名利の穴に堕ちて出る期を知らず。故に敢えて破法の大罪を顧みず。然りと雖も清法総滅大節の砌故に両方を将護して通用を止めず。他日ついに和融せしめんと欲する深志造次も忘ること無し。云云 両人明朝帰駕。二十七日大乗止観及び宗円記(第四の巻の初より)を講ず。また頃日録内啓蒙第二十巻平六清書成就。云云 
五月六日江府より便り有り。領主大樹講釈拝聴を望まるの儀すでに調えども官職受領名等の儀調わず。(三万石を減ず時城主に非ざる外総受領調わず)云云 重ねて官職に非ずと雖も別してその名を賜う旨これを許さるるに依って即ち左京の名を賜う等。云云 即ち富田権右を家老に遣わして祝詞を調う。十二日慈円の状来たり、その弟子慧鑑(亀屋甚左取立)野僧契約の弟子と為り、日号授与の一枚本尊を感得せんことを懇望す。故にしたためてこれを遣わす。十六日例年今日対面日と為すと雖も老来行学いよいよ寸隙を惜しむに依って当年より永くこれを止む。夏中総べて対面日無し。かつ聞く、今朝江府より早飛脚到着す。当月朔日領主左京入部の御暇拝領。云云 即刻富田氏を家老に遣わして祝詞を宣ぶ。二十九日比来旱魃に依って今日より祈雨の催し有り。云云 かつ聞く、他日黒貫に於いて累日護摩を修せらると雖もまた雨気無し。祈祷已弁の後数日を隔ててまさに雷雨有り。世間の批評是非多端。云云
六月十四日武村氏より書櫃到来。摩訶僧祇律、寄帰伝等また当便に来たる。往往電覧朱を加う。云云 また頃日吉祥寺新山に来たって一字三礼の御経を頂戴せんと懇望する有り。二十一日京都より心鏡の状来たり、啓蒙書写を筆工に約する趣きを示し、かつ筆工上中二品の手跡を送る。云云 かつ告ぐ、遠処然るべき屋敷有りと雖も高値なる故に未だこれを究めず。予まず屋敷の儀をさしおいて筆工の事を究め遣わさんと欲す。また頃日権太諸方に往行し、或いは馬を責める等の世人の批判を聞く。また比来日高氏土産の和中散を服用してはなはだ験有るを覚ゆ。また去る頃佐州妙相、妙浄、川上氏より状来たり回向の事を恃む。学雄の状来たらずと雖も無事を聞き二十四日心鏡、玄淑、吏運等の返書をしたためしめ、いよいよ啓蒙筆工書写の儀を決しかつ上筆工を定む。また啓蒙全部の筆工(三千余枚)大抵金三十両程の入目なるべきを聞く。故に(先年立塔の時心鏡より寄進する所の三十両谷口五右に預け置く故運運これを取り用いんと欲す)今便まず金子五両を送り安国論啓蒙清書写本三冊を遣わし、かつその外筆工の儀に就いて筆紙代等万端の雑用皆此方より弁ずべき旨を示す。また比来鑑古録を閲し朱を加うる事成就す。また比来毎日祈雨及び領主の海陸無事到着の祈願の神呪若干を勤む。二十九日映時領主到着。即刻富田氏を領主及び家老に遣わして祝詞を宣ぶ。また新助を伊集善左等に遣わしてこれを祝す。云云 後右京新たに月代を剃り乗馬供奉及び半七等の三子これに同じ。かつ領主着座の後息女をして茶を運ばしむる等の尤挙動有りと聞く。また山口権太右京に随って迎えとして一の瀬を出づる時右京これを領主に披露す。権太また登城やや久しく徘徊の後帰宅、饗応を右京一家の上下等に設く。
七月二日比来感応現験篇を周覧し朱を加え今日おわる。また感通録、文殊問経等往往朱を加う。また渋谷氏より(今度供奉帰宅)便り有り、かつ土産求肥を送る。かつ聞く、渋谷氏今日より城に出でず。かつて免役の儀を訴うるに由るが故なり。云云 主馬また諏訪祭前関嶺の服に依って出仕を遂げず。五日聞く、今日より家中の侍出仕の目見を遂げ、また明後日に至ってその儀式終わる。云云 また今朝山口藤兵衛閉門。使い和田与次衛、上山半右衛門。云云 自縄自縛是非に及ばず。七日本尊法衣等を曝すこと例の如し。午後領主より使い有り。かつ晒二疋を賜う。即刻藤井氏を以てこれを謝す。十日終日本尊をしたため、かつ反故を見分けて或いは焼き或いは与う。また読経部数古きは新たにこれを書き改め、重ねて所用無ければ部数或いは焼き或いは源助に与う。云云 十五日盆会解夏例の如し。慶幸些なからず。明日また終日本尊を書写す。十七日使いをして行中見廻り及び信物有るを謝す。十八日江府の酒匂氏より状来たり、かつ内内期する所の未勘の故事問訊の儀かつて神宮寺五兵衛に語るに彼たやすく許容取次の旨を告ぐ。(問訊の所記志弘文院及び友元に在り) これに依って平六をして未勘の本拠二十余條を書き集めしめ、他日清書して重便に付し酒匂氏に遣わす。また頃日聞く、領主と右京と不和の儀並びに七夕に右京父子出仕を遂げず。かつ領主囃興行の時なお隠居衆を招き呼ぶと雖も兼約有る右京父子招き呼ぶ儀を沙汰せざる等。云云 二十一日一代大意鈔に引く所の婆沙の本拠を勘うるに因ってたちまちに徹志を発し婆沙全部を周覧せんと欲して今日より朱或いは首書を加う。
八月朔日暮れ方渋谷金兵衛(宇右衛門改名)来たり謁し閑話す。石塔書付の事また快諾す。かつ島津式少万死一生の疾、跡職として舎弟主税を望むの趣き、兼日公儀に達し老中の内証すでに調う旨を聞く。今日客繁く、明日これを謝す。三日松元氏より欽悦の渡海を告ぐ。即ち平六を遣わして今夜の対面を約す。かつ聞く、備前及び鞆に在って不意に永く滞留。渡海延引の故に予州述師廟参の儀を止め直ちに当処に至る。云云 まず昌柏院及び小川等数通の状を送る故に披いてこれを見る。拝月の後兼約に依って伊善左、日高氏、璋庵来たり閑話す。敢えて別条無し。二更に及んで辞去。夜半欽悦来謁す。まず御経を頂戴せしめ閑談時を移し、つぶさに近年江府法難の体たらく日庭日養の出入り、並びに義勝院、信解院、高遣院各々弟子有って法義を相守り、及び欽悦脱難の由緒等を聞く。また聞く、常葉談林今能化無く学頭の良選、二老の円珠、その外有志の徒三十余人常葉に居住して学業を廃せず。異体同心にその節を持す。及び慈政(英然弟子)法義の思い入り有りと雖も天性臆病、彼日講の本尊を望むの言上覚えの中本地院日真の弟子の友善日良、孫弟子存了日慧京都の友正の下に於いて改悔し、日州の渡海を志すと雖も不案内の故に延引の言有り。また聞く、片桐主膳の内室(これ小川主君にして昌柏院の妹なり)内信尤も深し。今度小川施主と為りて施物及び元祖御影の裏頭を送らる。相違無ければ収納然るべし。昌柏院の状中施物有りと雖も自身施主に立たず、別家の小川を施主に恃まるる故に施物返弁もっとも然るべし。総じて昌柏名目より玄義に至るまで英然の講を聞かる。その執もっとも深し。向後別に施主を立てられざる施物の受用は不可等の事。また聞く、永井伊賀守(先年増上寺に於いて内藤和泉守に害せらる)の後室元正院(青山大膳の息女)今度旗二流、打敷一枚を送らる。これ法義堅固の故にもっとも収納有るべし。かつ関本伯典の一家歎徳懇望、施物及び人参等の信有り。これ大樹の近臣にして弘文院と親友なり。他年もし啓蒙全部を関左に送るに於いてはこの伯典に寄付して然るべし。内信またもっとも深し。また山野より回向の施を送り、これまた法義堅固希有の行者なり等の事。また自昌院殿改宗の縁は牛嶋の妙玄寺より(慧眼院弟子所化名交琢)事起こる。及び残清等同じく改宗し龍土の寺を以て東叡山の末寺と為す。また仙台孝勝寺の住持観正の隠居の後、林夙(日慧弟子)を招いて後住と為し、家中侍の俳諧の師と成る。後狂気する故に座籠に入れ置き観正再往す。また随光院改派して村田の住持と成り、後江府一同に受不に帰伏せし砌随光また参府して受不手形の人数と成って村田に帰り翌日逝去す。慧恬下総嶋の妙光寺の住持と成り、及び日養と信解院との不和の来由、並びに大坂了遠院存説阿党世雄の檀那を奪い取ると雖も逐日困窮、述師の諸道具を他宗に估却する等の僻事これ有り。故に檀那また捨てて世雄に還る。故を以て欽悦また了遠院と不通の趣き。江府法潤寺(日述開闢の寺)閑清住持の後谷中感応寺の末派と成る。故に世出不通等の事。寅の半刻に至って辞去す。当便世雄より池上現師所述の助顕鈔三冊を送る。紫竹より出づるが故にこれを求む。云云 明日平六を町に遣わし松元氏と欽悦両日滞留六日帰駕の儀を究め、両日の間今度恃み来たる所の本尊等をしたたむ。(歌徳重便を期す) 六日の暁(寅半刻)平六新助を欽悦に遣わし餞別として大幅の本尊等及び五種妙行の本尊を与え、別して本尊五十幅、首題百十返をしたため遣わす。かつ金襴五條の袈裟を付与す。卯刻平六新助帰宅し欽悦の慇懃口上の趣きを宣べ、追って辰過ぎ帰駕、今日津野に到る覚悟を聞くなり。午後源助を松元氏に遣わして一礼を宣べ、また今日より八日に至るまで日課の学問をさしおき歎徳五通及び残る所の本尊等をしたためて重便を待つ。十日十輪寺来たって快心の口上及び十五檀法の書付を達し、かつ泊如僧正の口上を伝えていわく、調伏の儀はこれ邪法なるが故に自然と流流これを制止するに依って当世既廃の法と成る。黒貫寺にたとい伝来の調伏法の書物有りと雖も永く廃してこれを伝うべからず。云云 この趣向の故に十五檀法の酬答一向沙汰無し。また快心より別して弘法の遺告は一家の秘書なれば堅く他宗に伝うることを禁ずと雖も、野僧の懇望なるを以て十輪寺に託して借与有るべき旨を告ぐ。云云 十一日朝齋を三十余人に設く。かつ聞く、昨夜島津又右衛門(右京改名)闔家の男女を引き連れて水食に蟄居す。(三歳より二里奥) 今日城に於いて囃子有りと雖もこの事に就いて目付等を遣わす故に大騒動。云云 後聞く、領主今日の拍子兼ねてまた右に約すと雖も松厳院の忌日なるに就いて高月院を招待す。故に昨日使いを遣わして俄に又右衛門を抑止す。腹立ちの基定めてこの事なるべし。云云 また聞く、又右三才を出づる時領主かつて江府より幼童の二子に送らるる所の能の衣装等を焼き捨つと。予思惟すらく、無礼の至り人倫の所作と為さざるのみに非ず恰も小児の瞋に似たり。云云 また昨夜権太密かに三才に行くの風説有るに依って目付等もっとも厳重なり。十二日妙法尼抄の宗尊親王時ョを追討するの歌を考うるに因って十三代集釈教の下朱を加うるに宗尊の歌見当たらず。哀傷部雑部等にまたこの歌無し。云云 十五日暮れ方月を拝し、夜に入って上山三左また来たり閑話す。二更に及んで去る。その後看経深更に至る。十六日終日客に接す。客また繁多。また手簡を以て比来世間物騒なれば今日の夜話を延引すべきの趣きを伊善左に窺うと雖も、又右騒動一途事済み後後三才帰宅の筈、敢えて別条無き故に今夜参加すべき旨を告ぐ。故に夜話を止めず。夜に入って善左、日高氏、璋庵来たって閑話し、二更の後辞し去る。かつ聞く、又右領主を重んずるが故に一旦身を引く等の陳答これ有りと雖も、かつて善く三才退出の砌舞台を切り払い鳥籠を焼失る等の僻事を知るが故に、小人の過ちは必ずかざるの名言を思い合わす。云云 十八日家老より富田氏を以て領主明日私宅に光臨する旨を告ぐ。云云 十九日天気清朗、これ幸いなり。飯後三嶋権之介、玄豊先立ちと為って来たり、隅中の後領主来臨着座。唔語時を移し、帰駕の砌領主をして歩を枉げて庵及び万部の石塔を見せしむ。首尾はなはだ好し。帰駕の後即ち富田氏を城に遣わしてこれを謝す。二十日伊善左手簡を以て領主の命に依って三右衛門と改名すと告ぐ。また頃日世雄より状来たる。かつ科註の拾塵抄を求めて(山光院作冊不足)これを送る。(紫竹売本) 二十二日分地より告ぐるに依ってまさに聞く、式少当月三日卒す。跡職の儀二日存生の内言上す。云云 主税当四月大坂発足、式少の死期にあわずと雖も歿後早く江府に参着為るべしと云う。即ち位牌をしたため一部真読を創め、毎日自我偈若干を誦し丁寧に回向す。かつ懐旧感恩等の哀情を催す。他日富田氏を領主及び家老に遣わして式少卒去の悔やみを宣ぶ。式少の道号十輪方達。二十四日流聖賢師の五十回忌を迎え読経一部。かつ少饗を設く。また比来しばしば観篇を閲し、かつ書本の義例随釈に点じ、首書を纂要に加う。二十五日聞く、領主樺山主馬に命じて近日参府せしむ。これ即ち式少跡職取り持ち等の所用なり。云云 予領主能く家老を使い成すを感ず。二十六日主馬明日発足すと聞く。主馬始めて参府希有の儀なるが故に彼岸勤行の砌たりと雖も平六を遣わして祝詞を宣ぶ。かつ米良庄左主馬に随って参府すと聞く故に使いを遣わして時宜を調う。二十七日了閑より状来たる。善了、授教院、中川市右、石川惣左等徒党し連判を催さんと欲すと雖も了閑と通ぜず。詮量も同心せざるに依って連判の儀調わずと告ぐ。(森氏岩井氏始めより興せず)これ幸いなり。云云
九月朔日述師の十三回忌を迎え朝齋を三十余輩に設く。云云 また今日佐州の妙相等より両度の状達す。敢えて別条無し。また義勝院より師範の年回の回向を恃み??を送る。また昨夜谷山道蔭の死去を聞く。故に牌をしたためて回向す。(かつて懇望に依って本尊を与う) 比来会本文句、止観、及び婆沙等に往往朱を加う。