萬代亀鏡録

説黙日課:11(日講上人)元禄六〜元禄七

三日式少の初命日に依って少饗を設く。幸いに今日分地より法名書付を送る。故に過去帳に入れ慇懃に回向す。四日油屋彦四郎万死一生に就いて野僧の本尊を懇望し道号を望む。故に即ちしたためてこれを遣わし、かつ四郎左を分地に遣わして(主税母儀)弔問す。七日たちまちに村田道幽昨夜逝去すと聞き新助を遣わしてこれを弔し、牌をしたためて一部真読を創め、かつ懐旧の感を催す。九日礼者これ多し。明後日これを謝す。かつ町より彦四郎昨夜死去すと告ぐ。故に牌をしたためて丁寧に回向す。十七日日高氏若州酒井靭負使者の返礼として明日発足するに依って暇乞いの為来たる。かつ聞く、島津又右頃日隠居して半兵衛の嫡子鶴松を家督とす。(鹿児島より指図有り) 晩天新助を日高氏に遣わして時宜を調う。十九日兼約に依って渋谷金兵と伊三右と夜に入って来たり閑話す。尾張大納言の隠居及び竹越山城の知行改易並びに紀州一向公儀の助成無きが故に台所逼迫等の事を聞く。かつ右京左京職位同じと雖も公家と武家の異に依って互いに甲乙有る沙汰有り。云云 公用にわかに呼び来たる故に亥前両人辞し去る。故を以て石塔書付の儀に及ばず。二十一日青原院殿の尽七日に依って朝齋を二十余輩に設く。また頃日透透朱を後漢書に加え、また南岳の心要及び観心誦経法を暗誦し、かつ十不二門を覆誦す。云云 また今日追手奉射世人義哲居士の尽七を避けざることを批評す。云云
十月朔日天昌寺当冬江湖興行に就いて今日より大安寺に移住す。暇乞いの為に来たる。正龍寺同道、かつ明春寺に帰るべきを告げて辞去す。また頃日十輪寺快心兼約の空海の遺言を持ち来たる。遺告釈疑抄を加えて一覧連連平六をして遺告を写さしむ。他日返璧してこれを謝す。かつ予遺告に就いて難勢條目をしたたむる有り。空海の製作に非ざるべきを批評す。云云 六日宗円記第四を講じおわって往往私考をしたたむ。十一日辻紹永の五十回忌に依って小饗を設く。十三日会式の朝齋等例の如し。十七日一昨より大安寺に於いて江湖法門興行に依って今日平六新助を遣わす。映半帰宅、つぶさに法門の様体を聞く。云云
(今日武帝達磨昨日世尊枯筆)かつ髟よりこれを謝する伝言有り。また伊三右病気に依って昨日の夜話無し。かつ聞く、頃日龍堂と春成と五左同道到着まず天昌寺に宿す。云云 二十二日宗円記第五の講を創む。二十四日心鏡より飛脚来たりつぶさに等持院の門前に永代碍り無き屋敷有り。文庫以下普請また整う。代銀八貫六百目。心鏡既に買い得て野僧に寄進す。また啓蒙書写写本到来の後上筆工両人を心鏡の宅に呼んでこれを書かしむる等の事を告ぐ。かつ友正院著述の草案大小都合十七冊を送って予が電覧に備う。かつ日養当六月二十八日新島に於いて遷化すと聞き牌をしたためて丁寧に回向す。また妙悦より経帷の開眼を恃む。これを見れば覚驍フ筆跡なり。故に開眼に及ばず別に首題等を新布にしたためてこれを遣わす。云云 また聞く、欽悦九月末に至り帰関発駕。飛脚明後日帰去故に明日持ち来たる所の本尊等及び回章をしたため明夜平六を遣わして飛脚に与う。かつ的便の故に啓蒙の筆工代もまた金五両を遣わす。心鏡返書の中慇懃にその深信厚志を感ず。云云 また今日武村氏より書籍来たる。新板の宝物集落手電覧す。云云 二十八日領主より使い(山口忠兵衛) 有って蜜柑一籠を送らる。富田氏を以てこれを謝す。かつ富田氏能組を持ち来たって明日より城に於いて能興行有ることを告ぐ。(四月の間各七番有り) 兼ねて富田氏に約して平六等の三人をして代わって見物せしむ。云云
十一月朔日会本の止観に朱を加うること今日成就す。三日村田道幽の尽七日忌に依って朝齋を設く。また頃日透透朱を貞観政要及び日本紀等に加う。十三日朝齋を二十余輩に設け、明日義哲居士の卒哭に依ってまた小饗を設く。二十三日饗応を二十余輩に設く。また頃日藤井三左の懇望に依って本尊を授与す。彼来たって観音夢中示現の詠歌を告げていわく、
 郭公おのが本尊は誰の話の不生不滅の鶯の声。
予聞いて深く歌体に感ず。義旨分明にして縁語もまた秀逸。かつて彼観音を信ずるに依って妙法と観音と本末の異有りと雖もついに一理に帰する法門を示して彼年来好む所の座禅を制止すること有り。彼能く領納す。その後また来たって夢感の趣きを告げていわく、観音示現して懇ろに示し給わく、向後座禅を止めて偏に観音の名号を称すべし。その深旨を知る人日本国中日講を除いてほか敢えて一人も無し。この法門ただ日講に尋ぬべし。自余智識有りと雖も必ずこの事を問うべからず。云云 予聞いて思惟すらく、末法また迹化守護付属の一途有り。故に彼の深信に寄託して或いは応物夢現の兆有るか。得て測り難し。更に今度夢想の歌を聞くいよいよ思議し難し。二十六日日高氏来謁す。(若州より帰る)暫話。夜に入ってまた日高氏璋庵夜話の為来たって閑談し時を移す。若州城中の馳走の体たらく及びその地の風俗並びに往還路次の粧い、京都真如堂を吉田の辺に引く等の事委細にこれを聞き、また聞く、領主ただ能を好むに依って家中文武の芸を廃するものこれ多し。予書経の玩物喪志の名言を引き合わせてこれを批評す。また近頃龍堂懇望の城山屋敷を賜うに就いて世間に可否の沙汰有る等の事を聞く。また伊三右比来家老等領主を招請し、並びに四口射場の馳走及び自身領主を饗応する等の隙入りに依って夜話を延ぶと雖も今夜また来たらず。かつ夜心鏡より来たる所の京の松茸を家老に信ず。しきりに謝礼有り。
十二月朔日江府本浄寺慧性院日栖の三十三回忌に依って課経をまし、かつ饗応を設く。云云 また樺山主馬米良庄左江府より帰るを聞く。故に新助を遣わして祝詞を宣ぶ。かつ妙輪並びに伊三右に及ぶ。主馬より謝使有り。米良氏自ら来たって謝し、つぶさに江府総別の体たらくを語る。また野田福泉来たり謁しくわしく龍堂の僻事及び城山の儀に就いて自ら龍堂を罵る等の事を告ぐ。二日更に新助を主馬に遣わして玄栄(樺山清左留守中逝去の故)の追弔を宣ぶ。三日姉妙行の二十五回忌に依って朝齋を設く。晩天三右来たって暫く話し、かつ年内石塔の儀随分肝煎りすべき旨を諾す。云云 六日晩方まさに聞く、山口権太知行改易、三箇国(日薩隅州)を払われ、かつ他家の奉公を制す。但し藤兵衛遠所の奉公を許さる。云云 両使を以て申の刻これを告げ、酉の刻を限って急に発足せしむ。家中皆驚く。予聞いて自業自得の果及び心能く地獄、心能く天堂の金言を観念し儒書一朝の瞋その身を忘る等の誡めを思い合わせり。また禍の基を糺明するに内縁有り外縁有り。内はなまじいに禅学に参り自高の心を懐いて他人を蔑如する誤りに由り、外は島津又右の威を借り、及び身侍有るの謬に由る。云云 予また旧交有りと雖も深慮を懐く故に人を遣わして慰問するに及ばず。明日八代善兵来たってつぶさに語る。権太公儀の使いを受けて後一向に図方を失い忙然として座す。故に親類来たり集まりて強いてこれを引き立て酉の刻にまず所を退いて黒生野に赴かしむ。家財道具等は皆まずこれを近所の親類の家に引き取らしむ。夜中きっと屋敷を公儀に引き渡す。故に財産等紛失また測り難し。予聞く、いよいよ権太平生血気の勇有り。故に伊集忠兵急に公使を受けて敢えて動転せず、その働き度に当たると雲泥万里の隔たり有りと知りぬ。明後八日権太の儀に就いて町田与左使いとして江府に赴く。権太また明後日黒生野を去って細島に赴き大坂に志して船に乗る。云云 かつまた権太内証逼迫なお路銀無し。故に親類縁者等金銀を出し合わせて当位の用途に擬す。云云 八日暁天明星を拝し法楽に備う。終日読経、かつ本尊をしたたむ。十一日八代源太兵衛(権太を島に送り出船を見て帰る)来たり謁しつぶさに権太浪人以後の粧いを語り、かつ権太夫婦名残を野僧に惜しむ趣きを告ぐ。予また胸裏感傷暗に催し、まさに惻隠の心は仁の端なるを思う。云云 かつ兼約に依って夜に入って浅山治右と伊三右来たり閑話す。寒熱の挨拶ややおわって始終法語歌書国史等の沙汰尋常の夜話と異なる。云云 また便に依って石塔書付の儀を恃む。能く諾して去る。明日浅山氏より謝使有り。予また使いを以てこれを謝す。十五日武村氏より書櫃来たる。宝積経及び論摂大乗釈論、瑞林集、十訓抄等連連電覧して朱を加う。云云 また世雄より紙包みを送る。披いてこれを見るに江府元正院始めて野僧に送るの長文なり。一覧事おわってまさに知んぬ、奇女その局平野及び芝の僧円清の書札また始めて来たる。古藤弥太夫また当便に旧臘慈父円悟院の死去を告げ回向の儀を恃み、かつ法問の問條を送る。つぶさに生国佐州当時江府土屋相模守に勤仕する等の趣きをしたためてこれを送る。十六日終日客に接す。八代善兵衛来たって閑話し、島津又右行跡の僻事及び龍堂の作業世間の沙汰宜しからざる等の事つぶさにこれを語る。また富田六兵来たり謁し密かに領主の行跡律儀内心聡利の趣き及びかつて野僧をして能を見せしめんと欲する事等を語る。後聞く、領主予の禁足を伝聞せらるるに依って能興行の沙汰止む。云云 また樺山主馬より土産を送らる。新助を遣わしてこれを謝す。かつ今夜月蝕に依って夜話を停止し、月蝕を拝しおわって看経深更に至って休む。頃日却温経、孝子経、出家箴等を見て朱を加う。明日より再治の外未進の本尊等を調えかつ元正院長文の返書、古藤氏問條の略答等をしたため船便に付して遣わす。二十日樺山氏より昨日領主饗応の余りと称して極上の茶及び菓子二種を送らる。明日平六を遣わしてこれを謝す。二十七日例の如く別行に入る。行中書写の本尊加行等例の如し。追って今年中の所作を点検するに是多く非少なし。来歳いよいよまさに進歩すべし。云云

元禄七 甲戌

正月朔日日待御祈祷経を拝読し、学初め書き初め試毫を霊前に献ずる等例の如し。四日今日より平六等の三人をして写し物を勤励せしむ。心に当年中啓蒙の再治及び類中書写入願を期する故なり。部数を点検するに往年立願の神呪十万巻の記録を失うが故(或いは誤って焼失せるか)に更に当春より余残の巻数に追補す。六日今日より本尊を書写するの外学文の日課を定む。一にくわしく再治の啓蒙を糺明し平六をして清書せしめ、及び朱を清書に加えてますます吟味す。二に宝積経を閲して朱或いは頭書を加う。(大抵毎日二巻) 三に四十華厳及び摩訶僧祇律を見て往往朱を加う。四に瑞林集閑暇周覧朱を加う。他日また大論、宗鏡録、珠林等の首書の余残を補わんと欲す。七日領主より使い(向井粂助)有って例年の目録を送らる。旧臘歳暮の使い(浅山郷右衛門)二十七日例年の呉服の目録を送らる。ともに行中故これを謝せず。また今日不時大熱、夜に入って巨雷震動す。十三日五種妙行の本尊数幅をしたたむ。また江府歳暮の飛脚今日到着す。八重尾氏より状来たる。かつ旧冬増上寺、霊厳寺等登城し大樹の御座間に召され法門興行時服拝領等の事を聞く。予比年台宗の登城論議興行等を聞かざる事を疑う。また島津主税家督相済み、松平日向守不行儀に依って旧冬改易等の事を聞く。十五日今日別行成就し、かつ部数をしたたむ。暮れに及んで平六を両奉行に遣わし、かつ明朝登城改年の一礼を調えんことを恃み、及び歳暮年始の使信を富田氏に謝す。家老の一礼をもまた富田氏に託し、かつ源助を町の問屋等に遣わして改年の礼を宣ぶること例の如し。十六日終日客に接す。天昌正龍江湖より帰り今朝来たり謁し信有り。かつ今日新助源助等を諸方に遣わして改年の祝儀及び謝礼を調うること例の如し。また富田氏来たって領主及び家老の返詞を達す。夜に入って伊集三右、日高七三、璋庵来たり閑話す。かつ大樹諸老中の宅に御成り有るべき旨旧冬仰せ渡し有る事及び土屋相模守に酒井靭負上屋敷を与え公命に依って移り替え有るを聞く。また聞く、明日より久峯の観音二七日の間開帳。(当初の開帳何代か知らず) 領主明日久峯参詣。云云 二十一日成合四郎左を分地に遣わして祝詞を慧性院(主税母儀)に宣ぶ。かつ状を主税に遣わす。また頃日透透友正草案私考を閲し、かつ玄淑送る所の医書丹水子を見る。また今日金柏寺(驩v)始めて来謁す。二十九日渋谷氏望みの如く家老職を許され、大名分と成ること監物の時の如くなるを聞く。故に使いを遣わしてこれを祝す。明日自ら来たってこれを謝す。
二月朔日当年よりいよいよ諸事を省くに就いて今日また歩行已上の客に接せず。少饗を足軽衆に設く。かつ去年止むを得ずたまたま十輪天昌の招請に赴くと雖も啓蒙の再治未だ刻定せず、かつ歳既に不踰炬逼るに依るが故に当春よりいよいよ禁足の格式これを定む。云云 また比来仮臥の砌保元物語を再見し、まさに語式不慮外の語この物語を指して本拠と為すの燕説を知る。云云 また比来自ら観心いよいよ熟するを覚え敢えて暫時も悪念を畜養する事無し。また追って旧冬領主向後幼少にして親に後るるの輩知行を減ぜず、高返米を出すべきの仕置きを定むと聞く。また旧臘月迫に至って領主の命有り急速隠居の三寺(不動寺、諏訪坊、一住院)輪番後住未定等の事を聞く。云云 また頃日日劫心章及び開奩篇等を熟覧して首書を加え、かつ泊如九八往心を料簡する、一往その義旨有るに似たりと雖も畢竟未だ大旨を了せず。曲会を免れざるの旨を批評し、別紙に数箇條の難を筆記す。云云 九日酒匂氏より状来たり、かつ旧冬大樹旗本衆の次男七百余人を召し出され、人毎に相当の扶持方を賜う。また春中御成の儀いよいよ治定す。故に老中の普請夥多等の事を告ぐ。また藤井三左旧冬より気分勝れず、故に頃日始めて来たり対謁す。云云 また比来透透盛衰記を考え、また平治物語を閲して当御書の本拠を考うることこれ多し。十二日江府の元正院より文来たり、かつ裏頭帯等を送らる。他日返書をしたためてこれを遣わす。また備作の了閑、三清、善了及び森氏等より状来たる。敢えて別条無し。なかんづく了閑の書中他宗及び受不方の的説を称し告げていわく、旧冬十月末方大樹天台宗の名僧を城に呼び集めて台宗の法問を聞し召す砌、大樹自ら法華宗の受不受の義を問う時、或る僧日蓮宗の法不受の正義なるを答う。大樹重ねてその儀を聞かんと欲すと雖も辞退して云わず。ただ日向の流人日講能く存知せらるべきの間これを召し帰されてその御尋ね有るべき旨これを答う。更に大樹に告げていわく、権者所立の一宗当代に至って滅亡の儀冥慮恐れ有り。云云 虚実測り難しと雖も伝来の趣きこれを記す。二十二日領主近日参府発足の故に今朝案内有り。映後暇乞いの為私宅に光臨し着座の後時宜を調えおわってまさに一字三礼の御経を頂戴せしめくわしく来歴を示し銀泥御経また頂戴せしむ。かつ便に因って石塔に題目を書付くること及び諱添加の二條を愁訴しつぶさにその道理及び先証を宣ぶ。領主よくその趣を領納せらる。野僧余命測り難し。故に領主の問訊を幸いとし直ちに素懐を宣べ、その成否に至っては偏に仏意に任す。云云 既にして帰駕す。即ち富田氏を遣わしてこれを謝し、更に少時を経てまた富田氏を以て暇乞いの時宜を調え、餞別の印五明及び宝物集を献ず。今日三島氏供奉またよく石塔書付の旨を領解す。云云 明日領主発駕。二十六日医生友仙来謁し、かつ二十二日石塔書付の愁訴帰宅の節家老等と密談有り。内証定めて既に調うべしと告ぐ。云云 予聞いて欣幸ますます仏加を信じ、追って思う、その日日習師の守り本尊を懐中するが故に訴うる所また通徹するか。云云 二十九日伊三右家老の使いとして来臨し、即ち石塔諱を書き加うる儀妨碍無かるべき旨左京申し置かるるの間別条有るべからざるの趣きを告ぐ。予題目の許否を問う。伊三右沙汰無しと答う。予推するに題目の條箇は領主或いは聞き達せられざるか。即ち伊三右に恃むに題目の儀を以てす。彼よく許諾し、かつ石垣腰板の事を告げていわく、家老と相談するに及ばずと。三右即ち許諾す。云云 また町田弥五比来疱瘡、今日夜に入ってたちまちに逝去す。平六を遣わして弔問しかつて懇望に依って道号の本尊を授与す。故に即ち牌をしたためて一部の真読を創む。また聞く、都於郡の荒木十郎右衛門二十一日の夜当沖に於いて乗る所の船破損して行方を知らずと。云云
三月二日平六を伊三右に遣わして先日恃む所の題目の儀を尋ぬ。その返詞にいわく、家老相談の趣き諱の儀大節既に成弁の上は題目の添加もまた貴意に任せらるべし。云云 比来一円手透を得ざる故に参扣の儀延引本意に背く等。予聞いていよいよ仏神の不思議力を信ず。四日野僧首題諱等を石塔の表に書付け、明日飯田次郎右、長友四郎右、廻治部左に恃んで銘を彫らしむ。六日手簡を伊三右に遣わして比来石塔書付の肝煎りを謝しかつ一礼を家老に宣ぶべき趣きを恃む。返翰また謝詞有り。かつ一礼を家老に達することを諾す。八日銘を彫り薄を置く事ともに成る。故に石塔を本に復し、かつかつて十輪に恃んで大坂に取る所の垣石を取り寄せてこれを築く。事おわって経を誦し礼を致し開眼供養成弁す。慶幸窮り無し。明日一礼を彫銘の三人に宣べ信を遣わす。云云 かつ聞く、弥五の跡職に就いて飯田氏等と富田六兵と違却の事有りと雖も今日無事相済む。十五日藤井三左病切なるを聞く。故に平六を遣わして対面せしめ、かつ安心を示し、かつ道号を尋ぬ。明日書付到来、医術すでに尽きて死を待つの趣きを聞く。故に近日臨終の本尊をしたため道号を書き入れ、重ねて平六を藤井氏に遣わしこれを頂戴せしむ。云云 二十三日大論の首書今日全部成就。他日平六をしてこれを書き集めしめ、更に大宝積経の首書を創め、増一婆沙の朱もまた怠り無し。二十五日荒木十郎右の死去の儀決定せるを聞く。故にかつて戒名を同氏平左に尋ね、今日五七の忌辰なるが故に供を備えて回向す。云云
四月二日藤井三左今朝逝去すと聞き平六を遣わして弔問し、かつ本尊入棺の旨を示さしめ、かつ牌をしたため一部真読を創む。懐旧の感慨累日止み難し。他日信を後室に遣わして慰喩す。云云 また平田道活首尾よく暇を主税に乞う。頃日帰宅。今日始めて来たり謁し、閑談時を移す。かつ柳沢出羽知行加増川越城に移る。川越豆州(一万石加増)久我城に移る。及び大久保加州御成前の普請等の雑用四万5千両程諸大名より諸道具等寄進十万両を過ぐるの入目なりと雖も估却すること能わず。故に借銀を償うに由無し等の事を聞く。また聞く、式少臨終の前より歿後に至るまで鹿児島屋敷より分地を左京に復せしむるの調略有りと雖もその儀調わず。云云 七日京都の心鏡より状来たる。かつ筆工新写の啓蒙始めて来たる。(写本とも十六冊) 予閲して快然、かつ心鏡等近頃等持院の門前屋敷に移住して筆工の宿と路次遠き故に毎日呼び来たること能わず。ここに因って写本を筆工頭の宿に遣わし、かつ昼夜目付の為一人を彼の宿所に遣わし置くと告ぐ。云云 また三清了閑京都よりの状来たる。その中つぶさに啓蒙書写に就いて心鏡無二の肝煎り及び啓蒙を賞美して日講恐らくはまた本化の菩薩の再誕たるべしと言う等の事を告ぐ。云云 また世雄の状の中に欽悦の状有り。かつ英然の法義忘却、受不施妙玄寺等と同座して供を受け、かつ天罰に依って悪名立つ等の事を告ぐ。云云 また京都慧雲院日進より状来たり、始めて松平紀伊守去年四月二十三日広島に於いて逝去すと聞く。即ち驚き今夜牌をしたためて一部の真読を創む。またまさに聞く、仙台日玄の忌月は八月、忌日は今年すでに十三の星霜を経。(かつて遷化を聞くと雖も年等知らず。故に平六より尋ね遣わす所の酬答なり) また長野名村等(自昌院殿御用女中)の戒名及び死去の年月日書付来たる。故に同じく牌をしたためて帳に入れ回向するの日慧雲臨終の本尊を懇望し、(他日したためてこれを遣わす)かつ身自ら持つ所の奥師御直筆諸処の収所を平六に問う有り。故に重便書物預けの事を心鏡に窺い遣わす。云云 八日今日より終夏加行例の如し。九日天昌鹿児島に赴くに就いて暇乞いの為来たる。かつ鹿児島より帰って後出世の為越前永平寺に赴く等の事を告ぐ。故に即ち今年中また起信註疏の講を延引すべきを約す。十二日比来大工来たって石塔の腰板を営み、今日成就す。呪を誦して心祷。二十日使いを金丸宗是に遣わして一月当沖船破損の時死亡十人の戒名を尋問し、即刻書付来たる故に牌をしたためて回向す。二十二日富田権右来たって当月二日領主の内室逝去を告ぐ。(領主土塚に於いてこれを聞く)即ち富田氏を家老に遣わして悔やみを宣ぶ。云云 戒名未だ聞かず。二十六日荒木平左野僧宗円を回向せしを謝せんが為に来たり、かつ本尊を懇望す。故に他日したためてこれを遣わす。二十八日午後澤聡左逝去すと聞く。故に平六を遣わして弔問し、戒名を牌にしたためて回向す。
五月九日八重尾伊兵(昨夜江府より帰宅)来たり謁し閑話す。かつ領主の簾中病中の粧い及び瑞輪寺に於いて葬送の儀有り、当屋敷より営む等の事を聞く。また老中諸大名遣わす所の御成の祝儀信物に就いてその品に依って彼方より代付(代付はなはだ高値その入目十倍)を定めて莫大の金銀を取る。これに依って世間盛んに老中の誑惑及び諸大名困窮の基有る沙汰等の事を聞く。また浅山氏より簾中の戒名を送る故に位牌に書き加う。十五日関東より存了渡海して松元氏の宿に到着す。即ち平六を遣わす。即ち知る、兼ねて聞き及ぶ所の本地院の孫弟子先に昌柏院の状(金入)並びに小川送る所の紙包みを達すと雖も、去年欽悦告ぐる所の首尾これ有るに依り、かつ存了欽悦の添え状を取り来たらざる故に今般対面を遂げず。野僧の本尊を望むと雖も敢えてこれを与えず。昌柏小川の状(小川清法故受用妨碍無しと雖も昌柏より来たる故同じくこれを返す)封を開くに及ばず明日平六を遣わしてこれを返納し、つぶさにその趣を存了に告げしむ。晩天存了吉左を以て大坂に滞留し飛脚を関東に遣わして欽悦の添え状を取るべし等種々の望み有りと雖も夜に入って更に平六を遣わし一旦帰関の後時節を隔て首尾を調えて更に渡海然るべき趣を告げしむ。故に彼よく諾して重来を期す。云云 十七日帰駕。二十一日の夜に至って存了また細島より立ち帰って河野三郎右の状を取って来たり松元氏に託してその趣きを私宅に告ぐと雖も、即ち平六を遣わしてくわしく今般の儀すでに治定するが故に違変成り難き趣きを示す。彼よく承諾しいよいよ重来を期し未明帰駕。云云 二十二日酒匂吉右頃日江府より帰宅し今日初めて来たり閑話時を移す。つぶさに江府適来の体たらく及び谷中感応寺瑞輪寺(江府身延末寺の首)の末寺と成ることを聞く。また辞去の時内内本拠未勘の條目友元に達する上返詞到来、近日達すべしと告ぐと雖もその後返詞の置き処を失念して返納はなはだ延引に及ぶ。云云 二十三日武村氏より書櫃来たる。なかんづく新板の六度経を閲して当初未だ検せざる本拠を考出す。これ幸いなり。その外二百番及び三百番の謡(二函)往往電覧。東鑑また当便に来たる。故に連連朱を加えて周覧す。また比来透透朱を春秋大全及び瑯耶代酔に加え、かつ首書を左伝に加う。
閏五月五日巨雷鳴動、後黒生野に落ち人を害すと聞く。云云 また酒匂氏浅山治右を以て告ぐ、友元の返詞の書付ついに見当たらず。故に明日の便状を神宮寺五兵に遣わし懇ろに再調の才覚を恃む等。云云 明日源助を遣わしてこれを謝す。また頃日天昌寺若耶(若狭の雅名)に赴くに就いて暇乞いの為来たり謁し当津より船に乗る。云云 また町田弥五の跡職立たず。町田与左、飯田氏、調所氏等逼塞して出でず。云云 九日酒匂氏より楠正成碑陰の銘及び墓誌(水戸宰相湊川辺の古廟を再興す)を送る。一覧感を催し即ち平六をしてこれを写さしむ。他日返納。かつ聞く、藤井三左の跡職相違無く徳千代に命ぜらる。云云 十一日伊三右来たり閑話す。かつ領主無官公私齟齬難儀に及ぶ趣き及び和田吉左(主税家老)驕者無礼の作法等を聞く。云云 また今日より映前映後を分けて新助源助を廊下に伺候せしむ。老来拍子木を打ち及び高声呼招に倦むが故なり。云云 十五日江府より便り有り、神宮寺五兵衛同寮の朋友と喧嘩刃傷、双方当座に死亡すと告ぐ。云云 予聞いて大いに驚く。ただその才智を惜しむのみに非ず、かつ永く啓蒙の本拠未勘訊訪の便を失うことを愁う。他日使いを団之丞に遣わしてこれを悔やむ。かつ命日(戒名未知)を聞き牌をしたため忌辰の回向丁寧に勤修す。十八日大風、私宅また破損多し。家老より当番の侍大勢を遣わし、かつ日高氏、富田氏、来たって下知す。故に大破に及ばず。云云 明日使いを家老等に遣わしてこれを謝す。かつ近年これ無き洪水、及び天昌船未だ出でず。風難危うきに及ぶと雖も一身つつがなし等の事を聞く。二十九日米良庄左来たり謁し、かつ団之丞口上の趣きを聞き慶雲元快(五兵衛法名)に回向するの儀を謝す。かつ野僧をして碑銘を綴らしめんことを懇望すと雖もくわしく遷客遠慮有る旨を宣べて辞退す。即ち米良氏に託して団之丞に酬答せしむ。
六月朔日町よりかつて大坂に誂えし所の白紙銀泥の御経函並びに釈尊の御外厨子を送る。かつ聞く、この両種忠兵衛の船に積みし処嵯峨の関に於いて船破損せり。自余の荷物は大形沈没すと雖もこの両種のみ幸いに波上に浮かぶ。故に清兵の船これを見つけ、取り揚げ自ら船に積んで来たり達す。云云 自ら聞いて偏に仏神の加護を信じ、即ち経函を披いてこれを見るに函内に収むる所の紅紫の紐敢えて水に湿わず。人力に非ざることを知ってますます信力を進む。云云 世雄慈円の状を披いてまさに知る。京都の日相五月十一日遷化。火葬を鳥羽にかいつくろい遺骨を和気(泉州)に納むと。即刻牌をしたためて一部の真読を創む。往事夢の如く感傷少なからず。云云 後聞く、日相存するの日かつて墓屋敷を和気村に求め得て自ら石経を書し兼ねてその地に埋め、かつ一石程の田地を買って歿後の墓所掃除の資糧に備う。この因縁有るが故に今度また遺言を守って骨を彼の所に送る。云云 二日早天白紙銀泥の御経を蒔絵の新函に収め奉り、かつ釈尊の御厨子を外厨子に容れ奉り、神呪若干を誦して中心泰然たり。飯後源助を松元氏に遣わしてこれを謝し、かつ祝儀の信物を忠兵、清兵等に伝えしむ。また今日平六をして吏運心鏡等に遣わす所の日相の悔やみ状及び世雄等の返書をしたためしめ宗是に達せしむ。また御経函等の海底に沈まざるに依って早く日相の遷化を知り、勤修回向これ幸いなることを思う。四日日相追薦に擬して朝齋を設く。云云 また頃日慶雲を弔って饗応を設くる有り。団之丞和田氏を遣わしてこれを謝する有り。また明日佐州の義勝院妙相より状来たりいよいよ清法を守る趣きを告げ、回向の志をのぶ。まさに孟夏欽悦より告ぐる所の佐渡一国の法義総滅はこれ燕説なることを知って自ら慶幸す。云云 五日町より備前の津島平兵衛配所参詣の旨を告ぐ。即ち平六を遣わして時宜を調うる処、まず状箱等を達せし故に披いてこれを見ればその中に平六了閑善了の事に就いて一結真俗の使いをして渡海せる趣きに似たる文体有り。故に更に源助を町に遣わして、彼をして敢えて了閑善了の儀に就いて使いとして渡海するに非ざる趣き一紙の起請文をしたためしむ。彼相違なく即刻にこれをしたため越す。故に更に使いを遣わして今夜の対面を約す。この起請興行二意を出でず。一には向後無益の問い状を遮止せんが為の故に。二には敢えて謗法に非ざる條目にみだりに私の見計を起こし、法灯の指揮をいさぎよくせざる過失を知らしめんが為の故に。夜に入って津島氏来謁す。まず御経を頂戴せしめ改悔の儀に擬す。その後金泥銀泥の二部の経等を拝見せしめおわって閑話す。大抵人体を視察するに正しき風底にして石川氏と気質大いに異なり。勿論始終了閑善了の沙汰に及ばず。故にただ大旨を以て異体同心及び破法大罪等の事これを教誡す。彼辞去の時すでに丑鼓を聞く。累日紙塔婆及び経帷開眼等をしたため、本尊並びに返札ともに重便に譲り今便省略す。七日の夜に至って平六を町に遣わし餞別として本尊首題等を送るに世出差有り。云云 後聞く、八日早朝帰駕。二十七日心鏡より状来たり新写の啓蒙四冊を送る。敢えて別条無し。また頃日毎日倭歌十二首を吟じて修行安心を助くる有り。云云 また朱を宝積経に加えて怠り無し。
七月六日野僧痔未だ癒えざるに依って或いは行学の障りを成す故に今日より木挽吉兵衛の痔疾妙薬の方を用いて他日ようやく験有るを覚ゆ。云云 十二日比来勤むる所の宝積経百二十巻及び四十華厳を電覧して朱を加え今日功おわる。かつ往往首書を加う。十五日盆供及び解夏例の如し。二十一日天昌寺(昨日帰寺)より使い有り、塩入り書籍一函(武村氏よりしたため越す所の書)を送らる。かつ聞く、当月上旬天昌乗る所の船嵯峨の関沖に於いて風波の難に遭い、船たちまちに傾いて荷物皆沈み海水身を浸し、一日夜幸いに長門の船速やかに漕ぎ来たってこれを救うに依って僅かに死亡を免れ、かつ大節の綸旨の箱自ら首に懸け幸いに恙なし。云云 また予が書箱幸いに二里程隔つる浜辺に流れ寄す。その所の代官これを取り上げて遙かに天昌の旅宿に送る故に持参す。云云 即ち使いを遣わして訪問し、かつ他日の対面を期す。また頃日日課を定め朱を婆沙論及び僧祇律に加うと雖も啓蒙の再治清書を急ぐが故にまずこれをさしおく。かつ聞く、去る頃大樹増上寺を大僧正に任ず。彼の宗その先例無し。云云 また予二階堂の興記を東鑑に考うること有り。云云 二十五日頃日庵の縁及び庇改造今日成就す。また吏運より書来たりつぶさに日相病中歿後の体たらく等と聞く。云云
八月三日義哲居士の一周忌を迎えて朝齋を二十余人に設く。また頃日啓蒙の再治に就いて大日経義釈及び演密抄を考えて朱或いは首書を加う。八日今日当夏津島渡海の時恃み来たる所の本尊歎徳等を成就す。他日平六をして返書をしたためしめ重便に付してこれを遣わす。十五日暮天月を拝し、夜に入って八代宗祐、平田道活来たり閑話す。暫時庵に登り月を詠じ歌物語有り。帰座また雑談出で深更に至って辞去す。十六日終日客に接し夜に入って伊三右、日高氏、三伯来臨閑話。云云 二十一日市来道入の訃音を聞き新助を遣わして弔問し、牌をしたためて回向す。二十四日比来したたむる所の啓蒙清書便に付して心鏡に送り、かつ筆二代金子十両を遣わす。(当春すでに五両を送る) 二十五日夜に入って浅山氏伊三右と来たり閑話す。ただ儒仏及び故事等の事を沙汰し敢えて世話無しこれ幸いなり。夜半に至って辞去す。また今日使いを伊三右に遣わすの砌たまたま大林坊当夏逝去すと聞く。即ち人を遣わして弔問し、牌をしたためて回向す。二十七日天昌寺来謁す。つぶさに若耶往還路次の粧い及び乗船破損始終の様体を聞き、かつ明朝天昌東頭開の法門を興行すと聞く。云云 二十九日心鏡より状来たり新写啓蒙八冊を送る。他日校合附紙を加えしめ更にこれを遣わす。また頃日痔疾転じて別所腫ると雖も本痔癒ゆるが故に平座を妨げず、これ幸いなり。また今日源右衛門(金丸文平下人)の訃音を聞き弔問、牌をしたためて丁寧に回向す。云云 
九月八日聞く、南都東大寺勧進聖龍松院公慶(供奉二十余輩)誓念寺に到着し、かつ勧進縁起を読む故に諸人群集す。云云 後日町より縁起の板本を送るが故に電覧、この首尾を了す。かつ聞く、公慶作業厳密にして朝夕一汁一菜もっとも苦行を修するに堪ゆ等。十五日一昨快心より十輪に託し久峯開帳縁起の添削を懇望するに依って止むを得ずしてこれを修補し、今日平六をして清書せしめ十輪に送って快心に達せしむ。(始終改補やや自作に同じ) 他日快心より丁寧なる礼状を送らる。云云
十月六日天昌来謁し鹿児島に赴くの旨を告ぐ。ここに依ってまた起信論の講来春に延引すべき儀を約す。云云 また比来透透首書を宗鏡録に加う。また頃日向井久馬来たり謁し、かつ母堂狂気に就いて御符等を懇望する有り。予宗旨の作法を示しただ怨霊に回向するを約す。即ち怨霊数輩の法名及び命日等を記せしめ、牌をしたため過去帳に入れて回向怠り無し。云云 かつ本尊を久馬の母に授与す。云云 十三日会式朝齋例の如し。また頃日朱を秘蔵宝鑰及び付法伝の泊如の注釈に加う。十六日終日客に接す。夜に入って酒匂氏、日高氏、三伯兼約に依って夜話の為来たる。(伊三右公用に依って来たらず) かつ聞く、南都大仏座像、長さ十三間、堂の縦六十間、横七十間。かつ天井を張りその下に仏像を安置す。高広遙かに落陽の大仏に超え、かつ万僧供養の時供うる所の膳二十万五千有余。(算者これを知る) その外手むすびの飯数また称計すべからず。また聞く、公慶毎年参府の宿坊は知足院なる故に自ら諸大名と有縁を成す。公慶常にいわく、我れ一代に於いて造営もし調わざればまさに歿後に送るべし。日本国に於いて勧物足らざればまさに唐土に勧進すべし等。夜半に至って辞し去る。二十六日たまたま地蔵本願経科註を見る。唐土台宗明哲の撰する所もっとも素懐にかなう。故に向後日課の一課に定めて連連朱或いは首書を加え、周覧新得これ多し。また今日天昌(鹿児島より帰る)来たり閑話す。
十一月三日暁天丑の刻町回禄、風強き故に片時に大焼。云云 また下僕関右比来長病、頃日少しく癒ゆと雖も、病習所用を弁ずるに足らず。故を以て兼ねて孫七に約し、近日関に代わって来侍す。(関右長病服薬快気を得偏に野僧恩恵に依ると他日云う) また比来朱を事文続集に加う。二十五日武村氏より書櫃来たる。新板道唯識論延喜式、神社啓蒙世諺俗談等来たる。かつ泣血余滴及び東鑑の脱漏を電覧し、これを抜書せしめ写本は返弁す。また夜に入って樺山主馬、伊十三右、三伯閑話。歌物語及び鹿児島家中二十四家系図改め等の沙汰有り。云云 夜半辞去。また頃日島津大隅守重病に依り見舞の為主馬近日発足。
十二月三日大隅守訃音を聞き即ち森兵左を家老等に遣わして弔問す。云云 かつ四聖念仏勧讃集を閲す。正論に非ずと雖もまた浄家博才の漢有るを知る。また比来朱を鎌倉九代記に加う。九日主馬鹿児島より帰宅す。まさに道号等を聞き牌をしたためて回向す。また聞く、黄門家久卒去の時大雪、七日卒後即ち止む。今度隅州卒前五日の間降雪止まず、帰寂の日即ち止む。云云 或いは偶然の儀為るべしと雖もまた表瑞轍を同ずるに似たり。云云 その外葬礼厳重、供奉の猛勢等の事枚挙にいとまあらず。また山房雑録を閲して朱を加う。十六日終日客に接す。夜に入って伊三右、酒匂氏、日高氏、三伯、玄豊来たり閑話し世出交談す。かつ京の所司代松平因州卒去、小笠原佐渡(吉田の城主)所司代と成る。また大樹江府所有の医師一万二千四百人を記集せしめ、その中重重吟味の上諸事整足の医者十人をえらんで公方の医と定む等の事を聞く。云云 また天昌寺重病に依って今日来たらざる使信有り。十九日歳暮諸方の礼節祝い物等品を別けて使いを遣わし終日事成る。以て後後年の格式と為す。云云 また雲棲はなはだ称美せるに依って比来高峯録を閲し、往往朱を加う。二十三日今日平六をして読誦書写等の総数を究めしめ、かつ当初発願する所の本尊首題各一万に満ぜんと欲するの儀この極月に限って成就す。即ち曼荼羅(大小)合して一万二十幅、首題都合一万二百七十返なり。云云 二十七日別行に入る事例の如し。行中書写本尊首題加行また新たにその数を定む。云云 また当年所作の行学及び運心等大体よく規矩にかなうか。