萬代亀鏡録

説黙日課:13(日講上人)元禄九〜元禄十一

元禄九 丙子 稔  聖人七十一歳

正月朔日日待御祈祷経を拝読する等例の如し。云云 五日江戸より歳暮の状来たる。年内より公方の仰せに依って犬小屋を三所に造る。云云 また公方の仰せに依って金銀を鋳直す。云云 前代未聞の事なり。十六日年始めて客に対面す。当年より書院に於いて客に対す。云云 二十二日白紙銀泥の法華経を心境に遣わし、日惺聖人の本尊を玄淑に遣わす。これ啓蒙筆工書写成就の祝儀を表するなり。云云
二月二十七日河本新助奉公年限当年成就し、夏頃帰国し代わりの人呼び越すべきの旨伊十吉左を以て公儀に達す。云云
四月三日大厨子の仏を心境に遣わす。同夜に入って了閑並びに寛説日経渡海の由町より告げ来たる。披露すること能わず。四日の夜御対面、日経の懇望に依って玄智院の号を授けらる。両人七日の暁当地発駕。二十八日江戸より智円(三十歳)渡海、懇望に依って師弟契約、名を泰善と改め諱を慈雲院日潤と云う。
五月朔日泰善当地発駕。二十八日河本新助当津乗船。
六月十九日新助出船。
七月二十五日小野権助到着。
八月八日小野田氏剃刀頂戴、僧名許容、慧亨日泰と号す。

元禄十 丁丑 稔  聖人七十二歳

正月の事例の如し。云云 二十五日浅山氏治右より御経の題号懇望これを遣わさる。
二月二日雪降ること十五六年に稀なり。
閏二月十七日樺山日法師始めて来臨御対面。
三月二十四日円明院日性(四十一歳)弟子了然(十九歳)改悔の為渡海、円応院より添え状これ有り。二十六日当地発足。
五月十七日佐土より川上湛佐衛門(権左衛門子息)下人角助主従二人渡海す。意趣は父権左の名代なり。権左の両親年回相当に依ってなり。松元吉左並びに兄七右の宅に滞留す。
六月四日当地発足。
八月七日起信註疏御講談成就す。盂蘭盆経疏新記御開講今日成就。
九月二日作州大守森美作守改易の事相聞こゆ。十一日万部御石塔上屋廨の大工始めて来たる。十七日大工の職成就。十八日竹垣成就。十九日掃除等ことごとく成弁。聖人歓喜窮り無し。
十月四日御石塔内の砂大町善右海辺よりこれを取る。二十七日作州武士籠城の沙汰相聞こゆ。
十一月十九日樺山主馬死去。
十二月晦日夜御日待等例の如し。

元禄十一 戊寅 稔  聖人七十三歳

正月御日待等例の如し。十六日諸人来臨、年始御対面例年の如し。二十五日吉田源助代わりの奉公人の事両奉行を以て(町田加左衛門、伊集院吉左衛門)公儀に達せらる。二十九日両奉行並びに宗旨奉行より大坂蔵元奉行村田八右に遣わすの状調い来たる。故に平六添え状をしたため佐加利村金丸宗是に頼み遣わす。云云 右代わり奉公人は去年三月渡海する所の了然なり。これ円応院日珠の肝煎りに依るなり。
二月八日の暁聖人障子の側に倒れ御額少しく損ずれども気色には別条無し。例の如く浴して看経これを勤めらる。十四日伊集院吉左当庵見舞役御免許。八代源太兵衛当庵役を勤む。十八日領主島津左京殿江戸発駕の暇乞いの為光臨対話、学文物語等。云云
三月朔日左京殿発駕。五日伊集院三右衛門、酒匂源左衛門、両人夜話深更に及ぶ。七日の夜浅山治右衛門、壱岐璋庵の両人来話す。仏書物語等快然たり。夜半前帰宅せらる。八月照、昧爽にして御読経、卯刻仰せにいわく、風気並びに疝気の心有り、向井吉兵衛を呼ぶべしと。使いを遣わして吉兵衛を呼び脈を診、薬二貼を越さる。これを用いて気色常の如し。終日御読経。夕飯後申の中刻養生の為寝所に入って御休息、夜静かに平臥。九日照暁天御手水。痰の心して息跳り経を読み難し。机に向かって終日御学文、朝飯平生の如し。飯後仰せにいわく、太平記を読むべし仰せに任せ予巳の刻より午の上刻に至るまでこれを読む。また仰せにいわく、録内啓蒙を読むべし。仰せに任せこれを読むこと四五紙予疲労と云いてこれを停む。未の刻に至って痰気大いに発る。即ち使いを向井氏に遣わして丸薬を越さる。後程参上すべし。云云
 この間に半紙の白紙あり。随分後文に継いでその意通ずるに似たり。たまたま誤って半紙を落とすかその意解し難し。故に本書にならいて暫時その閑紙を置くと云う
越さる所の丸薬三粒を用うるに痰疝即ち止まりまた常の如し。仰せにいわく、痰気快く止まる。使いを遣わして向井氏の参扣を停めよと。予いわく、参扣然るべし。暫時を歴てまた仰せにいわく、向井氏の参扣を停めよと。仰せに任せて使いを遣わし参扣を停む。向井氏いわく、明朝参上を遂ぐべし。云云 申の刻焼飯二つこれを餉る。日暮れに及んで御学文常の如し。夜に入って静かに御休息。亥の下刻痰気大いに発り胸を痛む。予並びに慧亨御胸腹を撫で、奇効円を用うること両度、痰気しばらく止まる。夜半過ぎたちまち寂を示し咽の鳴りこれ無し。即ち向井氏を呼び来たり灸治を加えらるも験無し。故を以て町田加左、八代源太兵両人の奉行に告ぐ。即ち来たって愁歎し、念の為予高雲、慧亨の三人の口上書を以て家老浅山治右衛門、伊十院三右衛門に訴う。暁十日飛脚二人を江戸に遣わして聖人大病の由申し越さる。今日医者三人終日相詰め、申の刻浅治右見廻り愁傷の詞を述べらる。十一日暁天使者猿渡久兵衛大急として発足し聖人御遷化の由申し越さる。申の刻御沐浴入棺、日暮れに及んで沐浴成弁し終わって下着帷、経帷、袈裟数珠これを帯せしめ、敷団の上に座せしめ自然に半伽吉祥の坐を結び、面貌手足の色存日より白くして浄潔なり。江戸の指図を待つを以ての故に塩二斛を以て棺に入れ尊体を埋め、棺槨共に鎖を用いて昼夜の番厳重なり。

奉行衆の人名
常恒の両奉行の同役に三島熊之助、伊集院半左衛門の二人を加えて両人ずつ一日一夜これを勤む。歩行目付四人、夜夜一人ずつこれを勤む。金丸太郎左衛門、児玉曾右衛門、岩崎瀬兵衛、田中紋右衛門の四人なり。
また歩行七番、昼二人、夜二人これを勤む。この組二人、目付一人、合して三人は寝ずの番なり。七番十四人の名は左記の如し。また門番常恒二人の外更に二人を加増して昼夜ずつこれを勤む。
七番の人数
一番 松元市左衛門  松山久左衛門
二番 石井七左衛門  長友新五兵衛
三番 久保権之允   牧野田平右衛門
四番 岡本加兵衛   長友利兵衛
五番 井上清太夫   青木多右衛門
六番 中村理兵衛   瀬戸口江兵衛(四月九日より比志島主水之を勤む)
七番 西郷蔵之允   有村理右衛門

十一日御遷化の事を状にしたためこれを告げ遣わす。世雄院、心境、三清、了閑、佐州権左等、柳心、慈円、慈久、円応院、見明院、小河等なり。二十八日照、世雄院、修善院、三清、浄心(了閑)予が兄二人等より年始状来たる。故に今日返状をしたたむることを金丸宗是に頼み遣わす。云云

追記
四月二十一日是心日欣並びに広島の存善日実渡海、大坂に於いて師の遷化の儀を聞く。云云 奉行の肝煎りに依って是心ひそかに御棺前に参詣し、五月両僧帰駕。
五月七日薄陰昨日猿渡久兵衛江戸より帰宅。御葬礼執行すべきの趣き江戸公儀相済みの旨家老衆に依って仰せ渡さる。これに依って今夜夜半過ぎ御葬礼執行。委曲は別記の如し。
七月二十二日高雲日周、慧亨日泰乗船。
十月二十日佐土原の湊を出で九日大坂に到る。慧照一人講師の一周忌まで逗留懇望の儀を公儀に訴う。公儀相調う故に年を越ゆ。
十二月十五日日講師御墓玉垣成就す。
元禄十二己卯歳

三月十日講師一周忌法事快く営む。慧照(四十四歳)五月十日乗船。六月十八日出船。同二十五日大坂に着し、七月三日上京す。慧照延宝四丙辰二月朔日佐土原に到って給使を勤む。当年帰国、都合二十四箇年なり。
これより下は本書張紙にて記す。読経記録の奥に辞世を題す和歌一首有り。
 白妙の法の蓮の華ひらけ経もろともにかえる寂光
またその次に三四行ほどおきて二首有り。
 うれしくぞ大白牛車にのりの道火の車をば余処に見なして
 いいおかん事こそなけれさめて後昔の夢のあとをおもえば

【奥 書】
余たまたま命を奉じて浪花に役し不意にこの日譜を閲す矣。そもそも日講は僧なり。かつて法難に罹って我藩に謫居す。時寛文六歳次丙午より元禄十一戊寅に至るまでついに脱免せずして配中に卒すなり。行年七十三。古墳屹乎として今猶城南に存す為。嗟乎有則人無則書、中間三十三年心を仏教に潜め孜孜勉勉倦まず。また看経の余或いは書を講じ、或いは客に接して上玄妙を論じ、下世話に及ぶ。これを熟覧するに当時国家の元気、風俗の美悪、人物の賛否また概見すべし。かつこの人や素浮屠氏にして公庭の責を招くなり。事の是非また知るを得ずと雖も、偏に法義を守り確乎として死を度外に置いて顧みず、また神女を論ずる説の如きやもっとも痛快なり。実に一世の人豪と謂いつべし乎。今や巻を懐にし釼鎗を翫ぶの徒と雖も、厚信好学の士に非ずして俗に甘んじ、世利を貪るの人の如き、豈企及の所以ならんや。因って窮かに思う、予が鄙陋の志趣を警るに足る。而してまた異日国史を見るの牽合と為す矣。客舎無事。則ち硯塵を払い殆ど百日に垂んとして写功成る。紙数二百七枚、分かちて上下二巻と為すと云う。
天保三年壬辰四月二十五日  中村藤原晴積書

右一巻文久四年甲子二月二十七日より写し始め三月十六日に至って成功。但し公務繁く少しの間暇無し。依って陰夜灯火に於いて筆に任せて敢えて書損を厭わずと云う。前後二冊全部。云云  青厳台宝美蔵書

題 首
書は万世に朽ちず。世遠ざかり人滅ぶといえども、書に対する時はその世の形勢をしる。猶眼前に見聞するに等しからんか。下総国野呂妙興寺の僧、寛文六年罪ありて日向に配せらる。蓋し龍淵公台命によって加賀爪氏より預かり、御領国佐土原大小路の邸に召し置かる。思過度に起居閑静の地。望みに任せて新山なる一邸に遷居せしむ。居る事三十余年にして寂す。なかんづく教るのまにまに自ら記し置く処の日課数年滅せずして大坂の地に遺れりとぞ。一とせ中村なにがし公務によってなにわの御邸にありしとき、この書を求め得甚だ珍重して書写し、彼の僧配所日記と号し、上下二巻として世に流布すること年あり。余天保の末借り求めて電覧するに御当地の故事今見るが如し。その後安政の頃肥後の国なる僧侶この書を見て殊の外喜ぶ。余に写さん事を進む。余は本より浮屠の徒にあらざれば何の用にかせんと辞すれど、あながち予が少しく史の事に預かるの務にしあれば、また故事に於いて見合の端ともならめとしきりなれば、心ならず許諾して則ち写を始め、ようやく三十枚ほど写しかけぬ。折しも公務繁く一日の透間だになき事をいかにせん。然るに●●のぬし暇多きに因りて此事を伝えしに、写し見るべき由受がいて、二年あまりに及べどもその功遂げず。止むことなくして又一とせ余りを経ぬ。併しかくまで思い立ちし事をこのままに止めなんも本意なく、安政四の年睦月望の日再び志を発して夕方より写を始め、夜ごとに灯のもとに眼鏡なんどもて、きさらぎ末の七日というに漸くその功おわりぬ。顧うに徒しく六年の日数を経て一の巻を終えきょうし日ならずして夜ごとに灯をたのみ、日を累ぬるまま、弥生半六日というに全く成就する事とは成りぬ。改め名づけて説黙日課とす。彼僧は世に憚りある身にしあれば、石塔建立の折ふしさえあからさまにその名を記すべからずと制せられし由あれば、題号もそのままにあらわさん事また憚りなきにあらず。説黙は一邸の号なり。所謂和歌を選するに憚り有る人は読人知らずと言うがごとし。かつ彼の僧の事世俗古来より人口に膾炙して今に至るまで絶えず。予がこの成功かつて仏法を信ずるというにもあらず。偏に昔日の旧事を採るに有るのみ。これを以てその世の人滅ぶと雖も書中においてその形勢あきらかなり。これ書の捨つべからざる一端ならんか。此言をもて冠首に題すとしかいう。
文久四甲子年弥生二十日  寿高亭漫題

佐土原へ下総国野呂妙興寺先住日講寛文六年午五月二十八日寺社奉行加賀爪甲斐守殿より御預に付き相渡され候書付の写


御預の出家一人道中乗物にて相添え候侍一両人但し乗懸にて歩行侍五人足軽十人
一、江戸より道中にて不受不施門派の者共馳走振仕る儀之有るべく候。江戸発足の儀をも他所の者存ぜざる様に夜中に成る共発足致すべきの事。
一、在所に於いてしまり能き所に差置かれ諸方より一宗の通路又は書状の取替一切無用たるべき事。
一、中間二人付置、門には足軽両人番に差置、まず屋敷より外へ出し申すまじき事。
一、衣食の儀一切構い無く六人扶持計相渡さるべき事。
一、召使の者の儀一人の外は無用たるべき事。
一、其身諸道具書物以下心次第遣わし申さるべき事。
 五月二十九日

口上覚
去る寛文五年寺社方御朱印の御沙汰御座候時法華宗の内不受不施一派へ寺領等三宝供養の御志にて下され候間、年来の寺領と供養と格別と申し立て候儀を改め御供養と存じ奉るの趣手形差上げ候様にと寺社奉行より仰せ渡され候。然るにこの三宝供養の儀領掌致し手形差上げ候えば、経論釈等分明の証拠に候、我宗祖師日蓮以来数百年守り来たり候他宗の供養堅く受け申さざる訓法に相背き候故、手形差上げ難く候間その段御宥免成され、但し先規の如く国土通例の御仁恵として寺領等拝領申し候様御裁許願い奉るの由節節御侘言申し上げ、則ち巻物をも相認む。その時の御家老衆の内久世大和守殿並びに寺社奉行井上河内守殿へ進上置き候。されば三宝供養と仰せ渡され候処に異議申す事は上意違背の由にて、手形致さず候わば科條に仰せ渡さるべく候由寺社奉行より仰せ渡され候えども、重ねてこれを御請け申し候は手形の儀辞退致し候事上意違背の志にては全く御座無く候。宗旨の法義に少しも疵付けざる様正法清浄の法水を汲み候。妙法を弘通致し候えば、国土の御祈祷と成され候段祖師の筆跡明白に御座候故、第一忠節の志にて愁訴致し候え共、強いて上意違背の様に思し召す段は是非に及ばざる儀に御座候。異国本朝共に仏祖の筋目を相守り道理を強く申し立て候時、国主御聞分けこれ無く候えば流刑死罪をも顧みざる僧衆諸宗共に先規繁多に御座候。殊に我宗の事昔より以来この御供養の儀に付いては数代の列祖巨難を顧みず忠諫を尽くされ候掟に候えば、今更格式を改め候事成り難く候。右の道理をさえ後代に遺し置き候えば、その身を如何様に仰せ付けられ候いても苦しからざる由申し上げ候上にて、ついに同じく六年の夏かくの如く御預に仰せ付けられ候。以上
十一月九日
〔編者云〕
この書は著者配流後三十余年に渉る日記にして、原本は東鑑風の書体なるを今和訳してこれを掲ぐ。なお本書は古来説黙日課と云い鶴城叢書と云う。共に配所居邸の号に因みて後人の題する所なり。今且く前者に従う。

巻二終

説黙日課 終