不受不施二派分派の由来

不受不施二派分派の由来-1(中川古鑑)

寛文不受不施法難の後不受不施は切支丹宗門と同様に幕府より禁制となり、寺領田園は没収せられ殆ど全滅の厄運に陥り、其筋の詮議は増々厳しく純信の志士は発見次第流罪死罪の厳刑に処せられたが、信仰の力は到底幕府の弾圧に依って滅ぶるものでないから、強信のものは不惜身命で、窃に其の信仰を持続した。
即ち僧侶の方では幕府の沙汰を受けぬ前に、自ら寺を出て、或いは信徒の家に隠れ、或いは別に庵室を構えた。
信者の方は脱籍して帳外となり即ち無籍者となって夫々清僧に随従したものである。
また心弱き輩は祖師日蓮が「当世の責のおそろしさと申し露の身の消え難きに依りて、或いは落ち或いは心計りは信じ或いはとかうす」と示された如くに、一時は悲田に落ち遂に古受に降ったものもあり、初より古受となり、またこれを嫌うて天台宗などに改宗したものもある。
甚だしきは自殺したものが往々あった。
その中に心計り信じたものは外は受不施等に装い内実不受の清僧に帰依して内々信仰を続けた。
これが所謂内信者である。

その頃は別して宗門改めが厳しくあった。
田舎などでは毎年宗旨改めの時分には「切支丹宗門御改の書物」と称して
一、先年より被仰付候切支丹宗門御改めの儀常に懈怠なく男女共相改め、切支丹宗門並びに不受不施または悲田不受不施宗門の者は村中に一人も無御座候に付、帳面に銘々判形を仕候云云
と書出して悉く判形をしたものである。

故に内信者を仮判と称え、また不法立とも云い、また表面他派たる故濁法濁派などと名付けた。
これに対して帳外の清信者を法立とも清法とも云い清者の一派を中間とも法中とも云い、この法中と法立とを総括して清派と称えたのである。
この法中は固より謗法者の供養を受けないのみならず、内信者は外染内浄の者で即濁法のものであるから、その供養を直ちに受くることは出来ない、そこで法立が内信者より供養物を受けて更にこれを清僧に供養したのである。
故に法立のことを施主と称えた。

因みに施主立の事を一言しよう、京都妙覚寺九ヶ條の法式の中に
一、設雖為誘引之方便直不可受謗法供養事
という箇條がある。
これは設い法華の信仰に引き入れる方便になろうとも謗法者の供養を直ちに受けるは違法であるが、一度信者の手に入れ転じて受けるは苦しくないという意義である。
古来法華宗は何れの門流を問わず、他宗の者の供養はその者に縁故ある法華宗の信者が施主に立ちての供養を取り次いだものである。
日奥上人はこの施主立の事について多義を以て解釈してあるが、その中の一を取意して示そう。

針ほどの物も直ちに海に入るれば沈むべし、千人引きの大石も船に乗すれば自在なり、一紙半銭の小施も施主の船なき時は針を海に入るるが如く無間に沈むべし、十貫万両の大施も施主の船に乗すれば志す方へ自在にして大善となる法華の行者は如渡得船の舟を待つが故なり。

また施主立の一例を挙ぐれば、奥師が対馬の配所より赦免されて帰京せられた後、所司代板倉伊賀守勝重が天下の諸罪人等の滅悪生善の為め立つは自家の二世を祈らんとて、法華経一千部の読誦を発願し、奥師の徳を慕うて妙覚寺にこの事を願い出た。
これは寛永元年甲子卯月のことで、その時勝重の臣成田孫右衛門尉が法華宗の信者であったから施主となったのである。
(これが為め不受不施一派では成田を施主の開山の如くに云え伝えて居る)

さてこの時代に有っては外は幕府の目を忍んで信仰を持続すると同時に、内は清法と濁法との区別を厳格に立てて同座同行を禁ずる等の頗る煩瑣なる儀式を定め、後には清派式目と称してこれを厳守するに至ったが、禁制の当初は各地区々であったのである。
その頃派内の貫主株の高僧達即ち清一流の人物は大抵流罪の身の上であり、その上先例のない法滅の際であったから総ての儀礼格式が一定しないのはやむを得ないことである。
そこで真俗思い思いに帰依の清僧について指導を仰ぐという有様であったが、ここに端なく違法の者が出来した。
その結果ついに派内に分裂を来すこととなった。
その由来をこれより述べよう。

頃は元和二年戌九月備前岡山に宗順という法立があって、岡山栄町の内信者万助の仏前を拝し、同年十月に同町の内信者?丁子屋?九郎太夫方に於いて濁法即ち内信者の看経に導師を勤めたことがあった。
これが問題となって法中より宗順を取り調べて見ると、彼は去年酉の十月湯治の為め作州湯原へ出かけた折、暫く久世に滞留の砌浅島助七と云う法立が久世にて濁法の導師致し候故、苦しからぬことと心得て、自分もこれに倣ったのである。
これが謗法となれば彼れ助七も同じ誤りとなるべしと弁疏した。

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