不受不施二派分派の由来

不受不施二派分派の由来-2(中川古鑑)

そこで浅島助七を呼出して吟味すると、助七はまた法中の春雄院日雅より授与した久世看経講の本尊を提供して、この本尊には講中の内信者六人の法名を列記して、浅島助七法号真立院浄安授与之と認められ、即ち自分所持の本尊であるから、毎月看経講の砌にはこの本尊を懸け自分その座へ出て、香華灯明を備える計りで、導師は致さぬと返答した。
そこでこの本尊がまた内信六人の講曼荼羅なるに法立助七に授与すと書きある故内信と法立との別ち立て難く殊に題目講一結とある故内信と法立と結ぶ事となり即ち清濁混濫の認め方であると云う非難が起こった。

それが為め春雄院の弟子等は讃岐丸亀の流僧日堯が因州へ遣わしたる「授与之因州法華行者内信心如法之清信士女者也、延宝九辛酉年衣更着上旬時正日円焉」とある本尊を引証して「これ内信と如法の行者と一結なり。然らば春雄院の本尊に法立と内信とを一結に認めあるも苦しからざるべし、春雄もし謗法ならば日堯も謗法なるべし」と主張した。

これはその頃流僧とさえいえば何人も異論を唱えなかったから、かく日堯の本尊を引証して春雄院に対する非難を遁れんとしたものである。
然るにこの日堯の本尊もまた違法であると論ずるに至ったから、宗順は遂に同年十一月十二日津寺の覚照院日驍フ許に於いて前記二ヶ條の謬について改悔をした。

処が宗順と助七の申立に異議を生じたるに依り翌元和三年三月上旬岡山下之町本屋八左衛門宅に於いて法中立会の上両人の対審を開いた。
助七は忽ち閉口せし故この改悔の義を宗順より仲間へ捜露せしに付き法中評定の上同年六月十日覚驩@日通光林院日晋本柳院日理恵雄院日庭正法院日春詮量院日?松?貴照院日骼竢ニ院日玄この外顕性覚雄俗法立にては井上三衛門江田源七等列席の上助七に改悔せしめた。
これで両人の処分は済んだのである。

然るに日指方に於いて宗順は助七に対して謗法を云い掛けた罪があるからそれを改悔させねばならぬ。
そのことは津寺の覚照院が承諾しながら何故等閑にして置くかと云い出した。
津寺の覚照院は助七が導師をしないものを、宗順がしたと誣たのならば咎はあるが、助七が実際導師したとすれば宗順には誓言の咎はないと云う見解であった。
故に右改悔の事は決して承合はないと主張した。

これが異議になり互いに諍論して備前備中美作の信者中へ回状を以て日指方大謗法なり津寺方大謗法ありと互いに触れ回りここにては口論し彼処にては喧嘩をなし終に一味の法中を破り日指方津寺方となり嫉謗雑言致し合い誠にあさましき風情であった。

この時備前岡山蓮昌寺十一世日相上人と云うは備前備中美作を支配する法灯職であるが、法難の為め寺を出で、京都北野に居られたから、津寺日指の葛藤に?於?て翌貞享元年甲子双方より日相上人の裁定を仰ぐこととなった。

依って日相上人は双方を京都に召し寄せられ同年六月二十四日対決仰せ付けられ篤と始終の義趣を聞召されその上にて相師は今法滅の砌一味の内引き破り諍論致すこと大罪なり、法命相続の道念に住し双方共に我情を捨て両改悔にて和合すべし。
もっとも是非を料簡する時は一方は理一方は無理なる方あるべし。
?保?しこれは時に当て一毛一滴の如し、仏法の大破は大山大海の如し、一分の感情を以て仏法の大破を顧みざるは邪見の至り仏法の重罪なりと、懇々教訓を加えられた。

そこで津寺方は信伏随従せりと雖も日指方は覚驩@は改悔を畏り奉るも助七には国方一味の者多き故に改悔致させ難しと申立たるに付き日相上人は忍力に?召?し数日間に渉り懇々御意見ありしも更に承諾しない故同月二十八日決断の上像門流の式法に依り日指方を謗法罪に結帰して不通の旨言渡さるることとなった。
この時の日相師の裁決は実に法灯職相応にして至極の公論なりと謂うべし。

然るに覚驩@が邪念強盛にして日相至道の了簡を触向対面に黙止することも衣の袖に対してなし難しと浅き考えを以て事を助七に託し和融の訓論に背き破法罪を顧みざるは道念ある僧侶にあらずと謂つべし。
虎狼に衣を着せたる野狐情なり嗚呼悲歎すべきにあらずや。

この年九月末に讃州丸亀の流人日了上人より惣次郎甚兵衛両名を使いとして京都へ登らせて日相上人裁決の模様を聞合わせ、また春雄よりも岡山の切附屋市右衛門を使いとして自己が認めたる本尊謬りなりや否伺いのため上京せしめた。
恰も好し使者三人同時に日相上人の許に出し時相師より日指方謗罪不通の始末並びに春雄院本尊の書き誤りをつぶさに御物語あり、三人はそれぞれ帰途についた。

この時春雄は大病にて備前山嵜村庄右衛門方にて養生中でしたが、次第に危篤に陥り、京の返事を聞き心安く臨終を遂げんと待ちつつある処へ、十月三日市右衛門帰ったから看病の者はすぐ知らせると、京の首尾如何と尋ねられた故その心を安めんと思い謬はなしと答えたから春雄院は歓喜の咲を含みやれ嬉しやとて、市右衛門が未だ草鞋の緒を解かぬ間に臨終した。
これが為め彼は死後遂に謗徒に引入れられたのである。

春雄院日雅は無我にして信心深き人なる故法灯の下知を相待ちける所に弟子衆偽って謬りなしと云いしこと孝心却って不孝となり父の首を切るは孝にして母の為に橋を渡すは不孝なりと云える古語にも同じあわれむべきことにこそあれ。
偖も日指方我慢の輩は法灯日相上人の教訓に服せず遂に勘気を蒙りその首尾散々にて岸の額に根を離れたる草の如く江の辺につながざる船に似たる有様なりし故更に讃州の流人日了より添状を得て、翌貞享二年丑五月逢沢清九郎井上三衛門を使いとし、前顕日堯日雅二幅の本尊と日堯より立賢に与えた條目左記
日堯日了師より立賢へ遣わしたる條目

昨日は書札給令枚見候
今日は妙閑殿逗留可被成由伝言候間書も疲れ候えども余りあさましく候間略して中入候

一、祐甫の物語並此方より遣わし候
書札見候て国方の方式とは相違候
一言にても両師の言は大事此義披露有るまじく押さえ破置候由先以不知礼法愚語也当時流僧は不受随一也礼方を云わば国方は両師の義に相違す
定て可有道理是を尋究てその上に取捨候わんと可被申候
何ぞ直に信敬国法式軽賊此方義耶是不知礼法謬也

一、内心清浄の方へ遣わす御本尊不拝云事是を拝すれば謗法となる故に不拝歟
また能持の人濁法なれば御本尊も濁不浄なる故に不拝歟もし謗法と成といわば授与僧も可謗法人何ぞ不難之唯難御本尊耶成謗法云わば何ぞ口入之所望し遣わすや。
また能持の人濁法なれば御本尊も濁本尊と云わば内心清浄の人は本来他宗と同歟
若し角なりといわば何ぞかようの悪人口入して遣わすや
若し本来他宗とは各別と云わば何ぞ授与御本尊を不拝耶受不悲田の御本尊と同する事非括謗罪可悲濁法の方へ御本尊遣わす事大に有子細不明本枝葉に付て定無義法式事前後相違本末不対の謬也能案授与根本不可有不審

一、書越処の二條目無我の囈語なりもし拝御本尊受不悲田可難云事受不悲田は不知内通一向他宗になると可謂もし甬は内の御本尊の有無拝不拝も不可知何ぞ可難耶若し内通を知る者難ぜば可答是には有子細欲知帰伏可聞可申不可有妨

一、拝濁法御本尊法立不法立分不立と云事内外清浄外濁内浄是程大に分立てあり御本尊は同事なる故に不可分

一、濁法の御本尊僧を頼み開眼して遣わすその後彼手に渡り候えば拝不申由是亦弥義也開眼の間ばかり拝開眼してその後不拝開眼の徳何くにある耶
開眼以後いつまでも利生有之様に開眼す当位ばかり何の詮か有之濁法の看経にも何ぞ利益有之耶

一、散銭の事勿論なり此方とても無施主濁法の布施無受何ぞ珍しく云之耶

一、濁法へ遣わす御本尊為現当二世利益遣わす
若し無正体無利生同反古授与して有何詮耶若し有利世濁法さえ有利生法立の人拝して何ぞ無利生耶
此等の道理にて可拝云に何の有咎耶略如此次此趣能々可有思案無招罪以袋臭莫捨其金かようの事歟内心に宝珠を懐く何ぞ可捨耶 已上

晦日  両真判
立賢公

とを齎らし日向佐土原の日講上人の御下知を願出た。(是より先き伊予国吉田御領の日述上人は元和元年九月朔日にまた肥後国球磨の流人日浣上人は延宝四年七月九日にいずれも逝去せられ、第一流の高僧はこの時日講上人一人であった)
処が日講上人は色々御思惟あり日相師にも違背せる程の我慢の者共なれば今評論を加うとも用ゆべしと思われずと、猶予ありしも日了の添状もあり殊に多年御近習相勤行学積もりし田口平六門弥岡村善助等も達て御願せし故、其情もだし難く思し召し先ず両人に一札を差出させ御対面の時も御経頂戴致させその上にて口上御聞遊ばさるその時両名の一札は左の通りである。

去年以来御法灯様へ違背申罪障今度以不思議之妨遂改悔懺悔蒙御免候段難有奉存候
殊に以御才覚諸方致和融候様に御膳煎可被成の段具に被仰聞本望至極に奉存候御意の通随分加異見日指方の改悔首尾仕候様に肝煎可申日了師へ御状被遣候由奉得其意候
定て相違も御座有間敷奉存候
万一日指方改悔の義合点不申候わば覚驩@等をも打捨尊意の筋目堅可相守候右の者少も偽於有之者忽ちに可罷蒙三宝御罰於一身候依って制法之趣如件
貞享二年乙丑五月入日
逢沢清九郎 判
井上三右衛門 判
進上 日講上人様

如是制状を御取なされ覚驩@へも改悔の本尊並びに一札の案文を遣わされ本柳院市良太夫は京都日相上人にて真俗惣代の改悔致し津寺方と和融し法命相続すべし、二幅の本尊並びに日堯の條目は此方に預かるべしとて両名は帰され左の返書を日了に送らる。

一、如来意備中??の信者の内またまた両派に相分かれ他宗の嘲弄新受等の笑種兎角絶言語事に候
大段の宗義破立の義に付祖師以来ついに無之天下惣滅の巨難に相当数々公庭へ罷出宗義の筋目申立殊に後代の亀鏡とも可成諫状を捧候て遠流の身と成候上に童いさかいの様なる小事に取付何かと言葉を費やし候事如何敷存候へ共法滅の時分内信の者一人も大切の砌に候えば何とも野僧以才覚和融させ申度念願に而不顧遠慮廻思慮候其段別書に認??候間能々御納得日指方へも随分御異見専一に存事に候
両人へ対顔の義も遠慮に存候え共貴札に其趣委細示給候故不能黙止則先一札を書せ候て改悔の印とし其後対面の時も御経頂戴法灯違背の罪障懺悔させ申候両人遙に渡海の志奇特に存事に候夫故今度和融の相談も興行候事に候えば一段の義に存じ候

一、去々年御両所より野僧への状に拝不拝の義問訊の砌惣滅の時に候故常と格をかえ拝候ても苦しかる間敷かの由申進候是は早爰元へ苦しかる間敷由被御附候て已後の尋に候えば法滅の砌殊に小事に付て異議に罷成候事も如何敷存候故人により密に拝しても苦しかる間敷歟の趣を以て一途申進候其上??施物を可有御返施義に付此方よりは弱の辺を以て誘引の義申進し候時の事にて候えば此本尊拝不拝の義も暫く弱の辺に随い候て法滅の時に候えば拝も苦しかる間敷かと申候勿論内証心得の為に種々通局とも野僧存寄の通申進じ候
他宗へまれに本尊授与の義も法滅の時に候故以制途法施を許し且は米代の為の義に候えば押出し不苦と披露申程の事にては存間敷候尋常法義繁昌の時に候えば一派の内少し濁候ても其者には義絶して本尊をも不与彼に改悔の義を勧め一また一人を罪して大勢の手本に仕教誡にて候然に今法穢の時故外染内浄の者に以別途本尊令授与候義勢にて他宗へも希には苦しかる間敷歟の旨乍次手申進し候夫故其時の我にも万端内証示合後代??の支証に成候故格式定置申度所存に候間少しも無腹蔵御内証御尤に存候と書進し候
内談の中の事にて候えば未決定の事も可有之候條能々御心得専一に存候されども信謗致与同同行仕候ては金石迷い易く候わん人歟其上筆跡に顕し信謗混同の授与は尤可有遠慮候委細如別紙に候恐惶謹言
五月十九日   日講 判
日了貴師

貴答
猶以もし此日指方改悔の義不相調候えば永く二つに分かれ彼方も我に成候て日堯共謗法杯と申立候えば大事に候條随分改悔の義御異見専一に候本尊も始より苦しからずと題を出す義に而は無之候條未制以前なる故に面々の思入不同の分にては謗法には成間敷と??い申程の事に候尋常一味の時にて候えば加様の小事は相談の上にて弱の辺へ随い候ても妨碍なき事に候え共既に異議に成候上は寛正年中一宗通同の法式の如く強義為正の格式宗旨の大法にて候故其段難背候殊に信謗雑乱の授与並同音の勤等は十人に八または結句不審を立候者可有之様に存候然は同行謗法の増上縁にも可罷成候條此義相済候わば向後は授与書も信謗各別に致し不拝の義を格式と可定覚悟に候以上

同時の別紙
一、覚驩@覚照院出入の義両人より紙面差越候え共水火の違目??境是非の評判難成故不能返書候内京都日相師両方御呼上せ対決の上始の是非に御構い無之唯法滅の時分両派に成候罪障並法灯へも不窺候て私に謗法の義致落居両方共に回状触廻し候咎を以て双方改悔させ始の段も是非落居なくに双方改悔と御申付候処に津寺方は致領掌令改悔候え共日指方異義申に付日相師より日指方へは世出不通と御申渡候由示給候始の義誓文の上は是非難付候故此趣向尤に存野僧より為内証平六善助より覚驫o照へ改悔相勤可然旨申遣わし候え共ついに無返事候故自然と不通に罷成候覚悟にて居申候処に今度貴師より委細示給此方の指図次第可仕由両人も領掌申候故一段の義に存則去年已来法灯違背の義罪障懺悔の一札を取候て其上にて令対面委曲様子承候尤津寺方にも不実なる事多く有之様に聞こえ候え共それは世罪に落畢竟最前申候
最後の二ヶ條謗法と申に付ての吟味に候えば以其筋目日指方へ日相師に令帰伏改悔可然旨令異見候條貴師も随分異見御加え候て首尾申様に御思案専一に存候覚驍煌o照も日来不和故日相をも津寺贔屓候様に思いなし候段令推察候故今更日相へ随遂の義可難成様に存候に付此方より改悔の本尊遣候則一札を取其上に日相へ如前致随遂候筈に令分別候??日指方より僧中の惣名代として本柳院一人俗衆の惣代として六人連判の内源七歟市良太夫歟一人京都へ参改悔の作法勤る筈に致し則日相へ添状仕津寺方へ日相より本尊謗法等の落居の書付参候故日指方殊の外令立腹日相の本尊等も巻き其上互に悪口雑言苦々敷由に承候えば暫く改悔の義領掌有間敷も難計候え共所詮法滅の砌以小義相分かれ候事不可然の趣重々申違候間談合に可被?立?乗歟の様に存候
若し亦日指方改悔の義異義申候わば此方よりも可致不通由申越候貴師よる不通被成候事御尤に存候
此方も日指方へ異見を加え領掌不致申候わば日指方と不通いたし野僧不知に可随由書物に頂戴させ候
右の趣は本尊の義に少しも不??與後の義に付落居の趣向にて御座候

一、本尊の事日指よりは春雄院本尊謗法に被致落居其元堯師因州へ投与の本尊と其義を分け堯師のは濁法計への授与に候條混乱有間敷由に決帰候え共今度両人持参候書物の中に立賢へ被遣候堯師の書中見申候えば春雄院のと同じ趣にて信謗同一の授与書にて候事無紛候然は春雄院を謗法と落居候えば堯師へも難題懸り候
さて日相より此方へも無相談春雄院の本尊謗法と被致落居候事も理不尽の義に存候就文野僧方覚にて堯師へも??不付様に致しまた日相の落居の筋をも無妨碍様に令料簡相談の上にて後代?も格式を定置度其料簡の大旨は天下惣滅の義祖師以来ついに無之事に候故今度以別義内心清浄の族不惜身命をも不立然も心は不受不施にて有之一類を令憐愍故に本尊を押置令授与之新義出来申候本尊授与新義に候えば拝不拝与同不与同の義も面々の心入にて分別替候事無余義事に候
堯師は内心清浄の方を詮に御座候て仮判の義を方便と御心得候故拝しても苦しからざる了簡出来申候
また日相外相仮判の不浄の義を定規として与同謗法と被致落居されども是は一分一分の思入にて衆義にも無之格式未制以前の義に候えば何れも妨有間敷候
然は向後は一向清浄と内浄外染者と別段に定置度候譬を以申候わば一向清浄の所感の本尊は半くもるが如く一向他宗新古の受不施へ渡し候えば体は不改に候えども光用は一向に隠れたる如くにて候
既に半清半濁の者に候えば本尊の感応も半かくれ候て一向清法の力用には其隔可有之義に存候えば格別の苦に落居申候わば一向清法も気味悪敷狐疑無之半濁の者も分斉相当所感の本尊応用を可遂事に候えども面々利益有之上に信謗混乱の疑惑無之候條此義に可致治定覚悟に候

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