萬代亀鏡録附録

梅花鶯囀記-2(日念上人)

第二には隠居して世話する時は、今生にいとおしみおもいし父子妻子兄弟等をすくいたすくる事あたわず不孝無慈悲のいたりとなるべし。
第三に隠居して世話する時は、過去遠々劫の間父母夫婦兄弟等の類幾万億かあらんにそれをすくうこと能わず、共に六道に迷わん事愚痴無慈悲いうばかりなし。

さて三つの徳を言わば、隠居して世話をせざれば今生の罪過去の罪を滅し、不退の位にのぼる時は天にのぼり地に入り一切衆生をみちびく徳あり。
第二には隠居して世話をやかざれば今生の父母妻子朋友眷属等に至る迄すくい助くる徳あり。
御書にも妻子を不愍とおもわば法華経を修行して守り神となり導くべしとあそばされたり。
第三隠居して世話せざれば過去遠々劫の間縁を結びし衆生等をみちびき助くる徳あり。
この損徳をかんがえ忘れ給うべからず。

かくの如くおもいとりて一心に修行する時は、世継ぎの子供善果あらば富貴となるべし。
善果なくばたとえ乞食するとも人力の及ぶ所にあらず、面々の果報による所なり。
ただ我が身ひとりの得道を第一とすべし。
いずれも頭白く命の程も不常なれば、たとえ飢え死にするとも心を苦しむべからず。
臨終の後すみやかに金剛不壊の身を受けて光明をはなち飛行自在にして一切衆生をすくわんとこの所を楽しむ時は、綾羅錦繍を身にまとい、琴棋書画を楽しみとし、月卿雲客を友とし、八珍を朝夕に備えらるる物を見てもうらやむ心有るべからず。

かくの如く心の地盤をかたくすれば一句の法文を聞き候いても信心の水もれず仏道に大切の所なり。
この事を忘るれば信心の水もれて籠にて水を汲むが如くなるべし。
たとい糂汰を薬としかゆをすすり、鶉箸で朝夕を送るともうらみなし。

さて次に経王の事を申すべし。
まず王字の事儒道の心によれば、上の一は天なり。
天は慈悲の徳有りて雨露を降らして人民を養う。
中の一は人なり。
天の恵みを受けて仁義を行い身を養う。
下の一は地なり。
天のうるおいを受けて五穀を生じ人民を養う。
中の縦の一点は君王なり。
天の心に叶い、人の心に叶い、地の徳に叶い、慈悲を以て天下を治め人民を養う。
これによりて大王をば人民の父母といえり。
その位をいう時は士農工商は下にあり、その上に臣下大臣あり、七清家五摂家と昇る。
その頂上に住し給うを帝王と云うなり。

経王の心もまたかくのごとし。
釈迦仏悉達太子たりし時、十九にして王宮を出で給い、三十歳の御時成仏し、三十七日の間華厳経を説き給う。
聴聞の菩薩衆等をば人間として見る事能わず。
それより鹿野苑にいたり給いて十二年の間阿含経を説き給う。
舎利弗目蓮等釈迦仏の御許に至り問答して仏を外道の中へ引き入れんとせしかども、ついにまけて仏の弟子となり阿羅漢の位に迄経昇り給う。

次に十六年方等部の諸経を説き給う時、文殊維摩等の菩薩衆舎利弗等の二乗の衆を呵責し給いて大乗の人となし給えり。
次に十四年般若を説き給う。
これは須菩提等に仰せて説かしめ給う御経なり。
この四十二年の間の御経は法華に引き入れたまわん為方便の経なり。
この次に至って無量義経を説き給いて今迄の四十二年の経には成仏の事をあかさずと説き給うを舎利弗等聞き給いて大いに驚き、この仏はまことの釈迦仏にてはあるまじ。
天魔釈迦仏と変じ我等が心を転動せしめんとまどわすとあやしみ給えども、深意を説き給うを聞いて、さては今迄の御経は方便の説なりと納得せられし時、舎利弗等に成仏の記別をあたえ給えり。

かくの如く次第にのぼりて法華経を説き給う故に法華経を経王とは申すぞかし。
ただ今日本国中に弘まる真言念仏等の諸宗立前の四十二年の御経を一部ずつ取り出して宗旨を立つるものなり。
これに依って法華経より見れば何れも釈尊の御心を背きたる大謗法の宗旨なり。
謗法罪と申すはこれを申すぞかし。
伝教大師は法華宗をさして仏立宗となづけ給えり。
五十年の説法事広ければまず大旨をかくの如く心得て法華経を第一と信じ給うべきなり。

客人いわく、段々仰せらるるを承り届け候。
然るに法華宗の内に受不施、不受不施と申す二派あり、何れか古来よりの法にて候や。
二派のわけはいかようの子細にや。
つぶさに御物語り候え。

亭主のいわく、よき所に御心を付け給うものかな。
ここが第一の聞き所なり。
地獄極楽のわかれ道大事の所なり。
心をしずめて聞き給え。
総じて大事を聞く時は心片よらず、大唐天竺の事を日本にて評判するとおぼしめせ。
少しも心にひいきある時は正道得がたし。
およそ道を立つるにつき三国に亘りて品かわれりといえども、その義を立つる事は一揆なり。

天竺には外道の法と仏道とあり。
外道の法にも我が法の如くならざれば物を受けずとあり。
自鏡録にいわく、外道は人の施与を受くるに己が法の如くす。
今の出家の人は諸々の白衣をまどわし衆生の悪門をひらく。
衆生の苦しみの本をもとむ。
これ外道に及ばず。云云

漢には三皇五帝三王孔子孟子等の聖人の法には五常の法度を立て不義の物を受けずとあり。
孟訶のいわく、その義にあらず、その道にあらざれば一介も以て人に与えず、一介も以て人に取らずと。云云
日本には上代の神道に春日大明神の御託宣にいわく、鉄丸を食すと雖も心穢れたる人の物を受けずといえり。
仏法の掟もまた以てかくの如し。
天台のいわく、供養というとも意機成を表すと。云云

機成とは大衆仏の御説法を聞いて正道を納得し、心中歓喜のあまりに外に供養の正義とす。
今他宗より法華の僧を供養するものは法華経を信ぜざる上に面々の宗旨を朝夕礼拝恭敬しながら法華の僧を供養するは供養の正義にあたらず。
他宗の宗祖と法華経とは敵対せる故なり。
まず根元より聞かざれば納得成りがたし。
釈尊かねて末世の事を説き給う。
釈尊御入滅のその日より一千年を正法という。
その次の一千年を像法という。
この二千年の時は衆生の気も正直にして大罪をもつくらず、過去に善根をあたえたる衆生なり。
この時の導師には馬鳴ぼさつ、龍樹ぼさつ、観世音ぼさつ、薬王ぼさつ等に仰せられて摂受門をぎょうぜしめ給う。
この摂受門と申すは他宗を折伏し給わで、やわらかに弘め給う修行なり。

像法のなかばには観音菩薩南岳大師と生まれ、薬王菩薩は天台大師と生まれて摂受門を行じ給いしが、十人の智者を責め落とし給えり。
天台大師日本の伝教大師と生まれ給いて南都の六宗を責め落とし給えり。
像法の時すらかくの如し。
さて末法に入って弘通の導師を定め給うこと法華経の第四宝塔品より事おこれり。
末法の始めの五百年を闘諍堅固五百年と説き給えり。
大乗小乗合戦の時なり。
これによって宝塔品に至って釈尊多宝如来の宝塔の中に入り給いて十方の諸菩薩に告げてのたまうようは、この多宝如来ここに来たり給うこと大願有っての事なり。
この法華経を末法のすえまではるばると弘め置いて一切衆生を成仏させたき御願なり。
それについては妙法弘通の大導師なくては叶わず。
今集むる所の十方の大菩薩よく聞くべし。
誰か末法に出で身命をなげうちて法華経をひろめんと今仏前に於いて誓言を立つべしと三度迄御勧めなされ、提婆龍女の成仏の証を挙げて弘経をすすめ給いしかば、文殊観音等の大菩薩並びに観持品の八十万億那由佗のぼさつたち進み出で給いてのたまう様は、末法に法華経を弘通するには必ず三類の大敵あって妨げをなし候。

いかに妨げをなすとも我等仏勅を重んじ身命を捨てて弘通致すべし。
御気遣いなく弘通の大導師に仰せ付けらるべしとのぞみ給う。
さてここに湧出品にいたりては恒河沙の大菩薩すすみ出で給い、我等に大導師を仰せ付けらるべしと望み給う。
この時釈尊上の諸ぼさつに告げ給いてのたまわく、御辺達に導師ゆるしがたし。
器量及ばざる故なり。
ここに大菩薩衆あり。
この菩薩ならでは叶うまじと仰せらるる時、大地六種に震動し大地破裂して無量無辺の菩薩達湧出し給えり。
この上首を上行、無辺行、浄行、安立行という。
この菩薩達各々弟子をひきいて出でたまう。
この時上にのぞみ給える諸菩薩達覚えずして頭をたれ給えり。
土民の列座へ月卿雲客の出で給うが如くなり。
この時諸菩薩この湧出の菩薩を一人も知り給わず。
何れもあきれはてて御名ゆかしく思われけるを、弥勒菩薩知り給いて向かい奉りていわく、我等は等覚の位にのぼりければ十方の諸ぼさつ一人も知らざるはなし。
然るに今地より出で給うぼさつを見るに一人をも知らず。
何れの所にかくれておわしますやらん。
またていたらくを見るに我等及ばざる所の大菩薩なり。
くわしくこの因縁を語り給えと望み給う。

釈尊弥勒菩薩に告げていわく、これ我が弟子なりと。
弥勒菩薩難じていわく、君初成道の始めよりつきしたがい申し候えば御弟子の事はくわしく存ずる所なり。
たとえば若きもの百歳の老翁をさして我が子なりというが如し。
何とも心得がたしと給う。
釈尊のいわく、我このたびの成仏にあらず。
五百塵点劫のむかしより成道を極めたり。
今地より出でたるぼさつはその時の弟子なりとのたまいて寿量品を説き給う。
神力品に至りてこの上行等のぼさつに妙法蓮華経の五字を授け給いて末法の大導師と定め給う。
日月の光明のよく諸々の幽冥を除くが如く、この人世間に行じてよく衆生の闇を滅す、湧出の菩薩の智徳をほめ給えり。
末法五濁のとき釈尊の御名代としてこのやまとの国に出で給う故に詫胎の時は日天子蓮花にのりて胸に入りたまうと御母堂の御夢に見給い、御誕生の吉瑞には海中に蓮花開けり。

かくの如き尊き大菩薩この闘諍堅固の時に大導師となり給いて権教の導師を責め給う。
仏法中の合戦なればまず城廓を構え給うなり。
この城廓とは不受と不施との両門なり。
追手搦手のかこみの如し。
妙法五字の旗を揚げ、未顕真実の大弓に獲大罪報の大雁股を取りそえて城を守り給う。
他宗の大将軍は何れも法華にそむきて釈迦多宝十方の諸仏の怨敵と成る。
故に其人命終入阿鼻獄の悪人なり。
この悪人の施物を受くれば彼に与同する義なり。
また彼に施せば与同する義なり。
今世間を見るに強盗窃盗放火等の悪をなす人には物を施さず、彼が物をも受けず、これ与同罪にかからん事を恐るるが故なり。
この追手搦手の門を守護する勇士は日蓮大菩薩の門人なり。
伝教大師はこの法華宗を仏立宗と名付け給う。
宗の字をば尊と訓ず、人の咽の如し。

また枢鍵の如し。
所尊の法と能尊の仏身とあわして釈尊この妙法を証して仏位にのぼり、神通方便を以て衆生を利益し給う。
その功は妙法にあり。
尊むことこれに過ぎたるはなし。
ここを以て宗とす。
清浄無染の妙法なれば謗法の淤泥穢濁を受けず。
その謗法とさす所は諸宗の元祖妙法を捨てて小乗に執着するをさすなり。
その濁穢の極まりは無間地獄におつ。
この無間地獄の臭きにおい人天に来たるならば一時に血を吐きて死すべし。
然れども出山没山という二つの山蓋して来たらざるなり。
この故に無間地獄を出でて人間に来たる時も癩病悪瘡等の如き毒をうけ、身も常に臭きよし経文に見えたり。
かくの如く仏教のきらう所の謗法人の施物を受くるを受不施の宗と云うなり。
この法度を破る時は釈尊多宝十方の諸仏、本化迹化の諸ぼさつ等の敵となるなり。

この法度を破りたる人は身延山の貫主日乾上人その張本なり。
この人始めは大手の門を固めたる軍士なりしが、臆病神に誘引せられて胸さわぎ胴ふるい、ひそかにその門を抜け出でて三類の強敵の第一の門に至りて降参し、施物受くべしとわび言を吐きたり。
この時味方の大将軍の御耳に入りなば、彼の者をからめとって身を八つ裂きにし頭を軍門にかくべし。
にくき謀反人反り忠の者かなと悪み給うこと必然の道理なり。
あまつさえ彼の日乾法師味方の城中へ乱れ入り大将軍の咽喉をふまんとし、大将軍に随う者をばからめ取って敵の大将に渡しこれを責むる。
かくのごときの罪人は元来の敵人より罪百倍なり。
大将軍の俸禄をうけ奉る大恩を忘れ主君を害さんと欲する悪人なり。
これを企つる所の謀叛は元祖大菩薩を我が同類として恥を隠さんと企つる所の謀叛なり。
この謀反人に就く所の軍勢幾千万という数を知らず、皆仏祖の大敵となるなり。
日乾にたぶらかされて共に無間地獄におつることいたましき事なり。
これを仏法にては獅子身中の虫と云うなり。

客人のいわく、今御物語の通りを聞けばおそろしき破言と存ずるなり。
彼の日乾の事は鷹が峯檀林の開基となり、日本第一の身延山の貫主となり、智徳広大にて殊勝の人なるを謀反人反り忠の大悪人と仰せらるる余りの悪口と聞こえたり。
但しその義ありや。

亭主のいわく、各々心を静めて聞き給い候え。
まず祖師の咽を破らんとすると申すは、先に申しつる不受不施の門は人の咽の如し。
この門を破れば人死す。
然るをこの日乾祖師大菩薩を我が同類とせんと欲して阿仏房等の謗施を受け給うと言いかけ、祖師に無失の咎をぬり付け我が同類とせんと欲するは、これ大手の門を破る謀反人にあらずや。
我が身ひとりの法度を破るのみならず、在家出家をまどわかして悉く我が幕下につけんとす。
愚痴の真俗はだまされて彼の幕下に就く者数を知らず。
我が所立の祖師の御筆跡をば偽書となづけて誑惑す。
しかも殊勝顔にして法華経を読誦するは摂受門にもあらず、折伏門にもあらず。
鳥にもあらず、鼠にも非ず。
蝙蝠と云うものなり。

客人のいわく、仰せ承りげにその道理最もなり。
祖師の筆跡を偽書と云われたるとは如何ようにて候や。

亭主のいわく、録外の内新池抄と申す御書にいわく、法華経に背く者は三世の諸仏の頭を切る罪なり。
諸仏は一切衆生の父なり。
人として我が親を殺したらんもの我に物を与えんにこれを受くべきや。
いかなる智者聖人も無間地獄をのがるべからずと。云云

この文体を見給え。
釈迦仏は一切衆生の為には主なり、師なり。親なり。
この三徳有縁の釈尊の御下知を背きたる者は当世の他宗よりこれは仏敵法敵なり。
この施物を受くれば主師親の敵の物を受くるものなり。
日乾の所立他宗の物を勧めて受くる事皆人の知れる所なり。
この御書の中に如何なる智者聖人も無間地獄をばのがるべからずと遊ばせる一句、日乾等の頭にかかりて◇械枷檻となって動くべき様もなき故に、この苦痛をのがれんとて偽書と名付け諸人に申しふらすなり。
各々案じても御覧候え、この録外の御書は祖師御遷化の砌諸方より持ち来たる所の御直筆なり。
いかなるものか末の世に日乾等のたつる所の悪義を知りて兼ねてこの文を作る者あらんや。
あまりの切なさに構え出せる謀計なり。
この新池抄の御文体不受不施所立の肝心骨髄と思し召すべし。
かくの如く道理けつ然たる御書を偽書と云うことは、林の中を逆茂架雖を引いて通らんとする者の如し。

この日乾は秦の趙高、漢のおうもうにも超過せる大罪人なり。
今時の受不施の僧の心を推量していわく、日乾上人の如き他門の施を受けてやわらかに立つる時は三類の強敵にもせめられず、流罪死罪の難にもあわず、やすやすと寺院に住居して思いの儘に説法してありがたき妙法の功徳を一切衆生に聞かしめ、成仏の縁を結び、我が身も朝夕安穏に暮らすこと日乾上人の御智徳御弘通なり。
祖師大ぼさつの如く余り強く弘通したまい、最明寺殿にもしたがい給わずあらけなく弘通し給う故にその御身も流罪死罪に逢い給い、その門人迄難儀に及ぶ事ひとえに祖師の愚痴無分別より起これり。
日乾の如く弘通せば人迄も難儀なく自他共に心安し。
これまた祖師無分別にしもあらず根本釈迦仏の愚痴無分別よりおこれり。
末法の大導師を望み給いたる文殊観音無音等に付属せられば、やわらかに弘め給いて自他安穏なるべきに、いわれざる贅をして本化の上行菩薩をよび出し末法の導師を譲り、三類の強敵にせめらるべしなどとの給う。
上行菩薩は御弟子の事なれば師の仰せ背き給うべからず、是非なく導師を請け取って弘通し給うもことはりなり。

詮ずる所は釈尊の大愚痴より起こり、あわれ日乾上人の智慧を寸分釈尊に進じたらば末々難儀なくひろまるべきに、近頃残り多き事かなと悲歎する心得なり。
或る受不施の僧の談義を承るに、日奥の如くひろめらるる事あしくもあるまじ。
されどもあの様にかたくひろめては法華宗は絶え失せて今迄は続くまじ。
日乾の如く他門の施を受けてやわらかにひろめ給いたればこそ今迄続きけれ。
我々も日乾の徳にかかりて有難き法華経を人々に説ききかせることひとえに日乾の御恩有難き事なりと。云云

この僧の説法の体を見るに言葉には出さねども、祖師の御弘通をも非に思い、根本釈迦仏の説をも余り強き仏勅なりとうらみ奉るべし。
今時の受不施の出家の心得皆かくの如くなるべし。
かくの如くいう時は釈迦仏の五十年の説法も湯をわかして水に入れたるが如くいたずらごとと成り、三世の諸仏の説法の規式も乱れ大乗小乗のわけもなく、一切衆生利益の本願もやぶれ、世の人の諺にいえる糞も味噌も一つと成って一切衆生悪には悪を重ね、迷には迷を重ねて成仏の期をば絶つべし。
かくの如きの大罪皆日乾等のおくびょうより出で一切衆生をまよわす根本となる事不便の至りなり。
日乾の如くやわらかに立つる時は観持品の文も妄語となり、祖師大ぼさつの弘通もいたずらことと成りなん。

御書にいわく、観持品の数々の二字は天台伝教も口にはよみ身にはよみ給わず。
日蓮なくんば釈迦多宝十方の諸仏は大妄語仏なりとそしられ給うべしと。云云

当世の出家に問うべし、釈尊と日乾といずれ勝れたりや。