不受不施二派分派の由来

不受不施二派分派の由来-8(中川古鑑)

一、日指方の事去年已来種々御肝煎被成候え共色々故障候て不相調候段具に令承知候野僧も去年已来或は折伏或は誘引随分和融の手段を尽候え共畢竟本尊拝不拝の段にて◆破れ候上最早不及是非義に存候され共去年已来此事に付看経得りに成るをも不顧節々隙を費やし肝煎候段泡沫に同じ候を残念に存今一往加異見候條先日京都心鏡より当地へ飛脚の帰便に野僧より日指方覚驩@真俗中へ一通勝手より両人の者善了へ一通随分仏法の道理世間の暁喩無残所相認遣候畢竟未制已前の事にて謗法には不成候え共向後格式を立加様の授与書並信謗混乱同拝同行の義堅令停止旨の裏書同心申候歟無左候わば此方に此本尊いつ迄も預け置候歟の二ヶ條に究遣候其義にて不相調候わば仏の三不能の内にも無縁衆生難度と御座候えば其道理に任せ而後日指方と可令不通覚悟にて則日指方へも左様に申遣日相師へも今一応日指方へ異見状遣候間是非に付其返書到来申迄は其元より日指方不通被成候義も先延引被成候様にと申進候就之日堯本尊の授与書と春雄院本尊の授与書と同異の事貴士少領解違の所御座候間乍序申進候尤日堯の状不露顕内は日相師より本屋八左衛門内儀への授与書と文体相似たる様に候え共去年清九郎三右衛門日堯の状致持参候て見申候えば信謗混乱の授与書並拝の義に御定無隠事に候條日相師の授与書の御心入とは各別に候故日堯の授与書と春雄院の授与書と同じ道理に落申則其日堯直筆の状も二幅の本尊と同じ此方に留置候日相師へも去年の状に具に其段申入候間御失念は有間敷候日相師の御書出は此日堯の状未露顕内の事に候えば少も日相師の落度には成間敷と存候條其御心得可有之候され共是は謗論にて候間只本尊不拝の大旨にて兎角の挨拶被成候事肝要に存候三清へも其趣申遣候間能々被示合候事専一に存候
 極月二十六日 日講 判
竹内清左衛門殿

猶以此御本尊の裏書向後格式を立不拝の筈に認可申越は去年讃州日了師へ両度迄懇に申進候定て其旨日指方へ御伝可有之所今度俄に承候様に驚動申候事不審千万に存候向後弥不拝の格式無相違様に御心得尤に存候猶来春可申候

この頃江戸の日庭と云う邪僧が日堯の立義に同意したから、日指方は加勢を得て弥よ我情を募り、終に日了日庭等と示合せ「日向より二幅の本尊と堯了條目を取戻し、これを始経導師の旗印に押立て堯了條目の通りに弘通すべし。若し背く者は謗法に落さん」と確定した。
この事が元禄二年正月十四日善了よりの通知に依り日向に聞えた。
その前年八月五日に日了は死去した。
其遺書に依り法義弥雑乱し、講師が折角数年尽力せられたことも水泡に帰したから、日講上人は断然堯了庭及春雄院共を弥よ謗法と決帰して、日相師へその趣を通報せられた。
その年三月に覚驍謔闖走ハを添えて讃州の須股長兵衛備前の逢沢清九郎を使とし二幅の本尊及び條目の返戻方を催促し来ったから、日講上人は即ち「堯了状能破條目」(本書の末尾に掲ぐ)を認め又二幅の本尊弥よ謗法の旨添状して返却せられた。
茲に至て日指方は全く清流より除門されたのである。
続て同年五月朔日講師は覚照院へも左の通り通知せられた。

尚以香雲到着申候て其元の様子も有増相聞候わんと存事候且又近年種々誘引を廻し候者何とぞ日堯に疵不付様にとの所存にて彼是肝煎候所に左様の志も泡沫に同じ不及是非義に存候此上は大慈悲心を以日堯折伏還て可為日堯◆路脱苦之因縁と存じて此能破をも忽に仕立可申候以上

今度門弥今帰国候に付的便に一言令啓達候先以其元貴院弥御堅固候哉当表野僧無恙令看経候可御心易候
一、日指方二つ相分れ候義兼て伝承候内々如風聞逢沢清九郎須股長兵衛と申者と両人渡海三月十八日に当所迄被越候え共内々両人別て悪心強盛に付和融の義も不相調兼て讃州之俗人弘通故日堯日了弥謗法に令落居候條其御心得可被成由両人渡海以前日相師へも委申遣候付両人へ対面之義者申に不及捨邪帰正の教誡をも一向令停止候内々二幅之本尊を預置候裏書致返弁申歟の義は何とか日堯に疵不付様にと存立賢への書状は一旦の誤に致候半と存候て未倒以前の善巧方便を廻し候え共日堯日了同意の趣にて濁法の本尊を清法の者礼拝少も不苦其上清濁二派同座し看経講に清法の者導師致候え共不苦の由盛に致弘通覚體凾煦齧。の旨治定申候故日堯日了謗罪の段無遁処其上是非に付本尊取返し礼拝可申と申候上は我等義をも不用趣分明に令露顕候得ば本尊を留候ても行々何の詮も無之候其上日堯等謗法落居の上は二幅の本尊は申に不及自余の本尊皆々反古に成り候此上に裏書致候は糞土の牆に掛物致し蒔絵抔書候と同前の愚痴成張に候えば不及其儀事の故只勝手より覚髟タ讃州への返書に今度の二ヶ條弘通並野僧近年の異見を不用本尊取返し候上は破法歴然に候條日堯日了春雄院並日庭謗法弥治定の間何れへも其段無覆蔵被申渡候様にと申遣せ候其上彼両人少々逗留も不宜儀に存候て早々罷帰候え門弥追付上り候條其時慥に返弁可申候謗法治定の上は此方に留可申覚悟にては無之由平六門弥心得にて申候え共種々荒言を吐候故門弥上りを不待早々平六門弥手前より返し申候扱取除候衆の内部屋等も貴院へ参候て申趣と旧冬善助並切付屋等当地へ連状越候趣とは懸隔相違にて御座候此方へ書面の趣は兎角春雄院を謗法と落居被成候ては取除候者共も合点申間敷抔と申越候先日勝手より善助への返書にも取除候衆今度聖人落居之通日堯日了春雄院並日庭謗法落居二幅の本尊は不及申自余の本尊をも捨候て永代日指方と義絶申義に候て改悔も堅成間敷候右之通に候故聖人より連状の衆へ返書被遣にも不及由申伝候えと申遣候趣に候彼の逢沢須股両人其元へ帰候て以後の様子並取除候衆も如何様に成行候哉重便に委曲承度候若推量の外取除候衆覚悟能して野僧申通を守可申趣に候えば善をば急くを以能とする習之條爰元へ御断にも不及急度京都日相師にも改悔相調候様に随分内証御肝煎御尤に存候彼日堯日了より立賢への書札直筆も今迄平六等預り置候え共右の首尾故本尊と一所に返し候然上は弥彼状を定規に致邪義弘通可申と存不取敢彼状能破を認させ則当便に貴院へも一通指越候与に恵照記之と認させ日相師へも写させ進候是を和に被成彼邪義折伏御尤に存候委曲了簡物語可申候條不能細筆猶期後便之時候不宜
 五月朔日 日講 判
覚照貴院
(日蓮宗不受不施講門派本山本覚寺秘蔵の御真蹟に依り校正す)

説黙日課元禄二乙巳三月十八日左の記事あり
三月十八日従松元氏告逢沢清九郎讃州長兵衛渡海先遣門弥粗聞揉体、依平六披見覚體剩V状彼等邪義及為取返二幅本尊渡海之趣尤著明也、予初雖思惟本尊返弁時可加不拝之言歟、可削授与書歟之両端、後思返彼等既究謗徒上此二幅本尊亦及故同、故不及裏書等、其儘返弁覚悟也、雖然無味返之時可有後難、故思定著述日堯状能破後可返弁之託存隙入之儀令滞留彼両人千町宿、其間時々聞彼等放荒言云云、勿論始終不対面所存也、二十四日堯状能破書及追加或弁書札酬答案文亦出来、故入夜遣平六等千町宿令返弁二幅本尊両俗具述其趣云云、明日帰駕
五月二日の項
又令認堯状能破之書数通遣日相覚照等云云
七月朔日の項
了閑従京都之状来、告板行之相談早速難究、及鳥羽真正院法義無別條、世辺亦与日相和融之趣並日相見堯状破太称歎勤此書流布世間等之旨云云
八月二十三日の項
頃日従備前有使依破堯書日指方改悔之徒唯多云云、

是れより日指方覚驩@は除講記を著わして日講の「能破條目」を斥け、堯了状の通り濁法と同座同行して、始経導師することとなった。
故に日指一党を導師流と称えたのである。
説黙日課元禄四辛未五月十一日の項
要三渡海入夜密来閑話至深更、且聞覚骭ュ野僧述作堯了能破于日庭日題、且自作除講記云云
翌元禄五壬申佐州日庭より理証へ法立の真俗始経導師の事に付左の曲書を送り堯了の新義を助く
一、濁法内信の者題目講の砌法立の真俗始経導師勤の事
浣師より御申候は堅く勤め申間敷謗法になると申候事是は内信の者兼て施主を立て置候は其題目講の砌法立の真俗始経を致し候ても謗法にはなる間敷苦しからず其子細は既に供養作善の時分施主を立て仏事を営み候得ば其供養に法立の真俗参り候て齊を食し布施を受ることに候たとえば題目講の砌も施主有之候わば始経導師を致し候ても苦しかるまじく候惣じて施主を立る事を能く心得る事肝要にて候施主を立る事は濁法の者も内信の信力は不受不施の心にて能く候え共外相の身は受不施他宗分にて濁り悪敷候ゆえ作善題目を致し度時に法立の人を頼み候て仏事の主に致し候て不受不施の僧を頼み仏事善根を相勤めにて候左右有時は内心の者作善心持を致す時分は施主の身を借りての執行にて候又題目講の時分も施主の口を借り題目を唱るにて候斯様の為に施主を頼み立る事候左右有時は今も昔も施主さえ有之候得ば仏事を不受不施にて執行する事に候然れば題目の時も施主有之候えば始経導師を勤め候ても謗法にはならず苦しからず候若し施主有之ても悪敷と申候わば施主立ち候供養施物等も受まじき事に候又施主を立る何の所用に立候哉亦人も詮なき事に頼るるにて候但日浣の首経講の始経無用と御申候は施主の有る事を聞かれて施主是なきかと思い無用と御申候歟と存ずる事に候日奥上人も施主有之候えば施物等御受候て仏事を営み作善を執行給うと相聞候其後の日樹上人を始め諸上人衆施主有之施物等は御受候事を以て心得らるべく候只今施主無之は受けず施主有之候えば受候て聖霊の廻向祈祷抔をも相勤むる事に候然れば題目講の時分施主有之候は始経勤めても苦しかる間敷候

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