日講は『日堯日了日庭及び春雄院共いよいよ謗法』と決して日相等へその趣を通報した。まぁ日講の苦労は報われなかったのだ。
日堯日了日庭と春雄院は謗法の意を強くしてもう完全に袂を分かつつもりだと断じたのである。
日堯日了と春雄院は今までも名前が出ていたが日庭は初登場である。
日庭はもとは関東の僧であり、導師派の推進者であった。
この導師不導師の問題は何も備前だけで起きたものではなく関東方面でも議論・対立を醸していた。
その日庭がここ備前での対立に加わり、大いに日指派を鼓舞したのである。
だからこそ日指派は強気になり、日講を排除する強硬論にまで進展してしまった。
いわゆる、法中 法立 内信者の組織構造で法立の立場があいまいになって行く中で起きた論争と対立であったと言える。
寺報第275号から転載