元禄二年、覚隆院(日指方)が書面を添えて讃州の須股長兵衛、備前の逢沢清九郎を使いとして、二幅の本尊及び堯了条目の返還を求めて日講の元を訪れた。
日講は『堯了状能破条目』を認め、「二幅の本尊、いよいよ謗法となる旨」の手紙を添えて返却したのであった。ここに至って日指方は清流から完全に除門され袂を分かったのである。
これにより、日指方では除講記を著して日講の「堯了状能破条目」を退け、堯了状の通り同座同行して始経導師する事になった。
弾圧や捕縛処刑による清僧清俗の喪失があり、濁派と呼ばれる内信者が人的経済的に不受不施派を支える形が定着していった。
理論上は清派と濁派は区別できるとは云え不受不施という教派を支えるには内信者に頼るしかなかった。その制度の綻びが此の問題を引き起こしたと言えるだろう。
寺報第276号から転載