大覚大僧正は、南北朝時代の日蓮宗の僧であり、名は妙実。幼名は月光丸。近衛経忠の子、あるいは後醍醐天皇皇子説や児島高徳皇子説など出自に諸説あります。
いずれも生没年などから疑問とされていますが、京での有力者との関わりなどから、近衛家(公家の名門)に繋がる高貴な家系の出身であることは間違いないと思われます。
初めは真言を学んでいた大覚妙実でしたが、正和二年(1313)十七歳の時、京都布教中の日像の説法に共感し、弟子となります。
日像に師事した大覚は宮中や幕府へ日蓮の教えを説き、京都妙顕寺を時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願する祈願寺としての勅願寺・幕府の祈願所にすることに努めるなど、日蓮宗を朝廷や幕府が公認する教団に高めたのでした。
西身延と呼ばれる妙本寺は奥州(岩手県南部)出身の武士であった伊達氏が野山庄(現賀陽町)の地頭職として赴任した際の弘安四年(1281)に建立したものです。
伊達朝義は龍の口法難の日蓮の毅然とした態度に感じ入って日蓮に帰依したと云います。
朝義は日蓮に野山庄に寺院を創建するよう懇願します。
日蓮は弟子の日像を開基として推挙しますが、日像が布教のため京都を離れられないため、大覚が正和年間の末に赴いたと伝えられます。
大覚が精魂を傾けて備前・備中・備後・美作に赴いたのは正慶(1333)から康永(1342)にかけての十年前後とみられ、大覚によって開創されたと伝える寺院は実に五十を超えます。
大覚の備前への最初の足掛かりは当時旭川河口近くにあった浜野村(現岡山市南区浜野)であったと云います。
大覚が地元の豪族多田氏の保護を受け、松寿寺を開いたのが暦応四年(1341)でありました。次いで妙勝寺(現岡山市北区船頭町)を開いて(年号不明)此処を拠点に三備一作の法華が始ったとしました。
牛窓の本蓮寺は貞和三年(1347)春に地元の石原氏の帰依を得て、大覚が法華堂を創建したのを始まりとしています。
その少し前に大覚は伊福郷(現岡山市北区伊福町辺り)へ赴任した東国の武士松田氏の保護を得ます。
つまり、大覚は三野(御野)郡津島の真言宗福輪寺(津島福居にあったらしい)の良遊と対論し此れを論破して法華に改宗させます。
此れを聞いた備前国守護代で富山(矢坂山に築かれた山城=大安寺の北面)城主だった松田元喬は、領内の真言宗の僧侶と大覚を城内に呼んで問答勝負を行わせました。
大覚がその問答に勝利したのを見て松田元喬は一族をあげて法華に帰依します。
福輪寺を妙善寺に改め(1336)、御津の金川に道林寺(1340)、辛川に妙源寺を開き、今の県立図書館辺りに蓮昌寺を建立(1344)します。なお、蓮昌の名前は元喬の法号です。
さらに領内の数ある寺院と領民を法華に改めさせ日蓮宗の伝道活動を援けました。
これが後に松田氏を最大の外護者とする「備前法華」が形成される契機になり、日蓮宗の全国的な発展の礎ともなりました。
清音村軽部(現総社市清音村軽部)の大覚寺には大覚が長く滞在しています。
備中箭田(現倉敷市真備町)から備後(広島県東部)への重要な伝道拠点でした。
康永元年(1342)一旦京に戻った大覚は日像の後を継いで妙顕寺の第二世貫主となります。
妙顕寺では幕府の要請で法華経を読誦、天下泰平の祈祷を行い幕府の保護を受けるようになります。
皇室にも祈祷を捧げて関係を深めました。
旱魃のあった延文三年(1358)夏には後光厳天皇の命により京都桂川の雨乞い祈祷で降雨をもたらします。
この霊験により、師の日蓮、日朗、日像に菩薩号を賜り、大覚は日蓮宗で最初の大僧正に任じられました。
こうした功績をあげていく中、貞治三年(1364)妙顕寺において六十八歳で遷化します。師の日像と同じ深草(宝塔寺)で荼毘に付され霊廟が設けられました。
●以下雑学●
当時の法華の盛況を示す史跡として「題目石」があります。
大覚の直筆と言われる題目石が和気町法泉寺、岡山市西辛川大覚寺、清音村軽部大覚寺などに残っていて県下三大題目石と呼ばれ重要文化財に指定されています。
大覚が京に帰った後は、妙覚寺を創建した弟子の日實が伝道を継承しました。ために備前は妙覚寺の末寺が多いです。
牛窓の本蓮寺は本能寺の日暁が諸堂を整備し、日明貿易の商人などが帰依しました。その財力が京の法華寺院を支えました。同じく備前市浦伊部の妙圀寺は京都本圀寺の日伝により天台宗から改宗しました(1366)。
岡山県東部を流れる吉井川沿いは妙満寺を本山とする顕本法華宗が教線を拡大するなど、大覚の功績が伝道活動を活発化させました。
法華を外護した松田家は宇喜多直家に滅ぼされますが宇喜多家の主要な家臣は皆法華信徒でした。
直家の後、秀家はキリシタンの家臣を重用したので法華信徒の重臣と諍いが生じます。(他説あり)
これが「宇喜多騒動」で徳川家康の仲裁を仰ぐことになります。
この時、家臣の多くが家康の配下に入り、関ケ原の合戦に影響を与えました。
その中には「妹尾千軒皆法華」と呼ばれる妹尾の町を丸ごと法華に改宗させた庭瀬城主・戸川達安もいました。
さて、岡山には法華の中でも「不受不施」と呼ばれるものが存在します。江戸時代、キリシタンとともに不受不施派は禁教となります。
岡山城の池田光政はこれらを厳しく取り締まり、問答無用で廃した寺院数は六百に迫ります。寛文年間(1666年頃)のことです。
北区の横井上、富原の地域周辺だけで、不受不施派なるが故に廃寺にされた寺が七寺あったそうです。
それでも信仰を貫く信徒は地下に潜伏し、幕末明治まで法灯を守り抜きました。
【文中敬称略】
参考文献
備前法華と大覚大僧正(宗教新聞)。
大覚大僧正(夙外生)。
大覚大僧正伝。
大覚大僧正と妙善寺あれこれ。
岡山県ホームページ。
総社市ホームページ。
ウィキペディア。
その他。
宗報2026年版から抜粋